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和尚さんの法話 『 来世の法話 』

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無常の境に住む者も 無常を知れることもなき
三界火宅と説きおけど 驚く人こそ無かりけり
苦脳の娑婆に身を置きて 楽しむ心ぞ憂かれける」

これは、あの世というものがあって、そして死んで逝っ
てあの世というところは楽なところというわけではない
わけですよね。

善いことをして信仰を持って行けば別ですが。
そうでなかったら、うっかりするとあの世というところ
は大変なところなんですよね。

そういうことが前提にたって仏教というものは説いてあ
るわけですよ。

死んで皆あの世へ行ったら、善人も悪人もあの世へ行っ
たら皆平等だと、仏さんの世界へ行くんだから皆平等と
違いますかと。

お前は悪人だからあっちへ行って、おまえは善人だから
こっちへおいでというような差別はしませんやろという
人がいますが、やはり差別というものは、善い者も悪い
者も一緒にしたら平等ではないですよ。
それは悪平等ですよ。

平等というのは、努力をした者。
しない者。差は付けなければ平等ではない。
それは本当の平等ですね。

だからあの世という所は、信仰のある者と、この世で一
所懸命善いことをした者と。

或いは信仰の無かった者と、悪いことをした者と差別が
付くわけです。その差別が平等なんですよ。

だから我々は死んであの世で何処へ行けるか分からない
んですよ。
そういうことが前提にたってお経というものは説かれて
あるし、各宗派のお宗主さんもこのような歌を作ってあ
るのです。

この無常ということなんですけど、生死の里。生まれた
り死んだり、生まれたり死んだり。
そういう生死の里、無常の境ということは我々はちっと
も気がつかん。

何故気がつかないといかんかといいましたら、今言うあ
の世がそういう仕組みになってるから。

そして、何時死ぬか分からんということを考えておかん
といけませんよね。
弘法大師のように、我本年三月二十一日寅の刻に死ぬと。
自分の死ぬ月日、時間までちゃんと予言して死んでるん
ですね。

そういう人はそれで宜しいですけれども、我々は凡夫だ
から、何時死ぬか分かりませんわね。
今死ぬかも分からないですよね。
だから何時死ぬか、死ぬということは無常ということな
んですよ。

この世の中というものは、生まれたり死んだり生まれたり
死んだり繰り返しているわけですよ。
その世界へ我々は生まれてきた。
何遍、生まれてきたか我々には分からない。
記憶がないだけのことでね。

弘法大師は
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に
死に死んで死の終りに闇し」

凡夫のことを言ってるんですね。
つまり何遍、生まれてきてるか分からん。
時間は無限なんですよね。霊魂は不滅なんです。

この人類という肉体を持った人類の発生の始めというのは
あるけれども、霊魂の始めは無いんです。

始めから在るというわけです。
それを「無始以来」といいます。始めの無い始め。

いったいそれは何時からですかと仏教の話しの中で聞いた
ら、それは無始以来だという応えになってるんです。
永遠の過去からだというのです。

それから今日まで生まれ変わり死に変わり生まれ変わり死
に変わり、未だに極楽へ往生出来ていない。

何遍も何遍もこの地上に生まれ、この地上に生まれてきた
ら必ず肉体を持ってますから、動物に生まれ、魚に生まれ
ましょうとも、肉体を持っていますからその骨があります
わね。
その骨を腐らずに残っていたらと仮定すると、仏教は仮定
しないと説明が付かない、長い時間ですから。

或いは量が大きいのでね。
死ぬごとにその骨を積み重ねていくと、須弥山の、須弥山
の大きさといっても我々は分からないけれども、富士山の
何百倍、何千倍というような高さになるということをお経
に書いてあるのです。

我々が生まれ変わり死に変わりしてその骨を残していく。
その骨が朽ちずに残って、それを積み重ねていったとする
ともの凄い高い山になると。
それくらい生まれ変わってるんだけど、知らない。

生の始めも分からん、死の終わりも分からん。
それだけ輪廻を繰り返してきている。
この世だけじゃないということです。
永遠の中を彷徨ってきているわけです。
生まれたり死んだり生まれたり死んだりと。
これを仏教では無常というのです。

生死の里に生まれ来て、生死を悟る人は無しと。
生の始めに暗く、生の終りに暗く。
というわけで生死ということが分からないんですね。
無常の境に住む者も、無常を知れることも無し。

この世の中は、無常ということは、常が無いと書いていま
すね。
この常ということは変化しないということなんですよ。
無常という意味は、常が無いということで変化するという
意味です。

我々はこうして毎日家を見ていてもちっとも変ってないと
思うのですけれども、これが変わってるんですね。

大きく変化してないけれども、分からんけれども変化して
るんですよ。
十年、二十年見ないで、ぱっと見たらやはり変わってるん
ですね。毎日見てると分からんけれどもね。

兎に角、早い遅いにかかわらず無常なんですね。
全てのものは無常なんです。

そういう無常の境、境というのはこの世のことです。
無常の境に住む者も、というのは我々のことですね。
その無常ということも分からない。頭では分かっていても、
本当に心から分かっていない。
三界火宅と説きおけど驚く人こそ無かりけり。

三界という言葉はもう何回も書いているので見慣れたと思
うのですが、この世もあの世も含めて、迷う世界が三つあ
るんです。

欲界、欲の世界。色界、色の世界。
色というのは色形のある世界。
その上に無色界という、色も形も無い世界。
この三つに区切るんですね。それを三界という。
そして六道。
六道というのは、その欲の世界、欲界の中に、まず地獄、
餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界。この六つ。六欲天と
いうんですね。これが六道ですね。
色界、無色界は天。色天。無色天。というのです。
だから天上界の方が、範囲が広いんです。

その三界は、家宅の如しと、お釈迦さんがおっしゃった。
これは法華経の中に説いてますね。
それは、何回か書かせて頂いてますが、例えがあります。
兎に角、お経には例えがあります。
三界というのは例えて言いますと、大きな屋敷があって、
そして子供がおもちゃを持って遊んでいるんですね。 

ところが、その家の外から火事が起こってるんです。
ところが子供はそれを知らない。嬉々として遊び戯れてい
るんですね。
何れは、この家と一緒に子供は焼け死んでしまう。
そういうことを知らずに遊んでいる。
我々は、外で火事が起こってるのを知らずに遊んでいる子
供なんだと言ってるんです。例えてるんです我々人間のこ
とを。

三界火宅と説きおけど、驚く人こそ無かりけり。
誰も驚かない。
三界は家宅の如しだぞというても、誰も驚かないという嘆
きなんですね。

「三界火宅と説きおけど、驚く人こそ無かりけり。
苦脳の娑婆に身を置きて楽しむ心を憂かれけり。」

この世の中では、仏教では苦界と見るんですね。
娑婆は苦界と見る。