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和尚さんの法話 『誤認されている仏教の教え』

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だから賓頭盧さんは阿羅漢ですから、殺したらこの五逆罪
のひとつを犯すことになるので、だから迎えに出たと。
それじゃ今まで何で迎えに出なかったのか。
世間一般の仕来たりといいますか、習わしと致しましたら、
私は貴方の家来の子供で、貴方は王です。
それは世間の道理です。
ところが仏法の道理というのは、これは客観的な本当の道
理なんです。
お釈迦様は、この仏法の道理というものは、私が作ったも
のではないんだと。
これはもう永久に変わらないのだと。
永遠の過去から永遠の未来に向かって、その真理はずうっ
と変化なく通じているものであって、私が作ったものじゃ
ないんだと。
いうなれば私が発見したものなんだと。
こういう道理があるんだな、ということを私が知っただけ
のことなんだと。
だから、それを皆にこうして説いて聞かせているんだと。
そのお経の言葉の中に、こういう言葉があります。

「仏出づるも出でざるも、法は法位に住すて変易(へんや
く)ある事無し」
変易ですけれども、お経読みでへんやくと読む。変化する
ということです。
つまり永久に不動なんだという意味です。
仏様が出たから通じる、仏様が出ないから通じないと、そ
んなもんじゃないんだと。
これは客観的な永久の真理なんです。そういう意味なんで
す。
その主な法というのは道理ですから、因果の道理ですね。

それで、話を戻しますが、私はいつも来てたのに、迎えに
出なかったのはどういう意味かと聞いた。
今言う、世間の道理は、貴方は国王で私は家来の息子です。
然しながら、仏法の建て前からいうと、私は阿羅漢で貴方
は凡夫だと。
阿羅漢というのは、客観的に仏教だけに通じるものと違う
んです。
皆、仏に成ろうとすると阿羅漢を通過して行かなければい
かんのです。
今、他の宗教を信じている人であってもね。
そういうことで、阿羅漢である私が、凡夫の貴方をお迎え
すると。
凡夫が阿羅漢を迎えるのだったら分かるけど、阿羅漢が凡
夫を迎えに出るというと、迎えてもらったその凡夫である
貴方が、徳を減らす。

ここが大事なんでね、「徳を減らす」
同じ人間ですよね。ところが阿羅漢という位に就いてる方
ですね。

その阿羅漢に凡夫である王、たとえ王と雖も迎えに出られ
たと。そうすると王の得が減る。
徳が減ったらどうなるのか。
貴方の王の位が無くなります。
今は貴方は王の位についてますけれども、私が迎えに出た
から貴方は王の位を失くします。
何時になったらそういうことになるのだと聞くと。
一週間後に失くします。
すると一週間経ったら、隣国と戦が始まったんです。
そして負けた。
囚われてしまって王の位を失くし、国を奪われてしまった
んです。
これはお釈迦さんのまだいらっしゃる時代のことです。
そういうことで、因果の道理ですね。
だから昔の坊さんは、いつでもそういうことを信じてるん
ですね。

これも以前にお話ししたと思いますが、健礼門院という人
は清盛の二女ですかね。宮中の人ですね。
あの人が、文覚上人のお弟子さんの明恵上人に帰依するん
ですね。
文覚上人というのは、平家物語の中に出てきた袈裟御前の
夫を殺したんですね。
人妻であるのに横恋慕してね。
どんなに言うても聞かない。
それで私は二人の夫に仕えることは出来ないので、それな
ら私の夫を殺して下さいと。
そしていつ何時かに忍んで来て下さいと。
そして忍んで行って、夫だと思って殺して、布団を開けて
みたら袈裟御前を殺してたんですね。
袈裟御前は自分が身代りになったんですね。
それで無常を感じて、愛人の弔いの為と、自分の罪滅ぼし
の意味で、武士を捨てて仏門に入って、文覚という名前に
なったんですね。
其の人の弟子に、明恵上人という華厳宗の人があります。
その明恵上人に帰依してたはずですね。
そして或るときに、健礼門院が明恵上人を宮中へ呼んで、
仏門に入るというその儀式を授けてほしいということで呼
んだ。
普通だったら大勢でしますね。それを一対一でお願いした
いというのでご受をしたんですね。
それで宮中へ行くと、健礼門院は位が高いから一段高いと
ころへ座って、前へ御簾(みす)が下がってるんですね。


「仏像は飾り物ではない」

それは宮中の仕来たりですからね。皇后さんですから。
この形で受戒を受けたいということです。
すると上人曰く、戒を授けるときや法を説くときもそうな
んですが、お経に説いてあるのですが、上座でないといか
ん。
受ける人は下座でないといかんのです。
それは法を尊ぶ意味でね。
ところがこれは逆だと。
戒を授ける者が下座で、戒を受ける者が上座でと、こうい
う形で受戒しましたら受かる貴方も、授ける私も共々地獄
に落ちます。
それで宜しいですかと。
だいたい受戒というのは、死んで後生の為にすることなん
です。後生の用意ですね。
後生を助かるために受戒を受けようとしているのに、その
ために地獄へ落ちるということは、とんでもないことです。
それで入れ換わって、改めて受けたという話がありますね。
それくらいのものなんですよ、仏様とか仏道の道理とかい
うものは。
だから神さんでもそうです。我々より位が上なんですから。
仏様より位は下なんだけど神さんは我々より上の方ですか
らね。
だからお寺の前、お宮の前とか辻のお地蔵さんとか、兎に
角頭を下げて通るほうがいいということです。


それと繋がってきますが、和尚さんの寺の本堂の前に、石
の塔があります。
どの寺にもありますが、あれは飾りじゃないわけで、和尚
さんは毎日拝んでいるそうです。
塔というのは、仏様を彫ってます。
新しいのは梵字を彫ってる。
梵字というのは、インドではそのまま仏体を現わしていま
す。
阿弥陀様はどの字。お地蔵さんはどの字と、決まってます。
だからあの字を書いてあるということは四方に仏様がある
わけです。
だから塔はそのまま仏様なんです。
而も東西南北、四体いらっしゃるわけなんです。
だからその塔を、たとえ梵字が無くても、お姿を彫ってな
くても、塔の意味はそういう意味なんです。
ところがその塔を、大きなお屋敷に置いてある庭もあるの
ではないかと思うのですよ、格好がいいから。
ですがそれは拝むためじゃないですよね。飾りでしょ。
景観がいいから。
和尚さんの寺に橋本閑雪という画家の書いた額があるんで
すが、その画家と前の老僧が知り合いだったそうです。

その画家が、寺にある塔を欲しい欲しいと言っていたんで
すね。
ところがその塔は、天皇の冥福を祈るために建てられた塔
なので、当然断った。
画家はその塔を自分の屋敷きの庭へ置いて飾ろうと思った
んですね。
塔というのは、人の冥福を祈るために建てるんですよ。
飾り物ではないんです。
石の塔が変形したのが、木の塔婆ですね。
石の塔のもっと先へいくと、五重塔、三重塔になるわけで
す。あの塔の中には仏体が収まっているんです。
それをかたどってるわけです。
冥福、つまり廻向なんですよ。
ですから同じ建てるなら、お墓よりも塔のほうが功徳にな
ります。
所謂、普通のお墓は先祖のお屋敷です。
塔は如来様ですから。