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和尚さんの法話 『 世間と出世間 』

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ずうっと、同じことを言うわけです。
貴方は経験が無いでしょうと言ったことに対して、私は
する必要が無いと。
貴方はそういう経験をする境涯だけど、私はする必要が
無い境涯なんだと。
境涯が違うんだと。
こういうふうにお経ではそうなってますね。世間と出世
間との違いですね。


「田畑を耕す」

それとよく似たお経の中に、やはり或るバラモンがお釈
迦様に、貴方は草をとったり、種を耕したり、刈ったり、
そんなことはちっともしないで座ってばかりいる。
他はもう説法してるか、托鉢に行くか、そんなことだけ
していると。こう言ったんですね。

するとお釈迦様は、いやいやそんなことはないと。
私も田を耕すし、草もとるし、種もまくし、収穫も待っ
てるんだと。こう言うわけですね。
其れは何かといいますと、煩悩という草を刈るんだと。

貴方は、その草でしょうけど、私は煩悩という草をとる。
そして忍辱という牛を飼い。牛というのは辛抱強い。
忍辱とは耐える、苦しいことを辛抱するという意味ですね。
辱というのは、恥辱の辱という字ですね、恥ずかしめ。
人から恥ずかしめを受ける、つまりメンツにかかわる、男
が廃るということですね。
それを耐えていくというのは、非常に辛い。それを耐える。
それを代表して忍辱といいます。
兎に角、辛抱するということですね。
我慢というのとは違うんですよ。
我慢というのは、現在ではこの辛抱という意味に使われて
いますけれども、我慢強いとか、我慢の子とか言われて、
良いほうへ解釈されていますが、この我慢というのは、慢
心の慢。
慢というのは、驕りがある。
例えば、もの凄くしんどくて、しんどくて、それを耐え忍
んでる。それは忍辱でそれはそれでいいのです。
人から、しんどいのですかと聞かれると、いや、しんどく
御座いませんというのは、これが我慢なんですよ。
しんどいんですよ。誰が見てもしんどそうだし、自分もし
んどいんです。なのに、たいしたことは無いという。
それを我慢というのです。
やせ我慢ですね。
言葉でしんどいというのと、耐え忍ぶというのとはまた別
なんですね。そこの分け隔てがあるんですよね。

忍辱というのを、牛を使ってるんですね。
そして土を耕すのを牛を使って、鋤(すき)で耕しますね。
智慧を鋤を使って、煩悩の草をとって、心の田を耕す。心田。

心の田を耕して、そして菩提の種を蒔く。
世間の人は、食べ物の種を蒔くのですが、お釈迦様は菩提
の種を蒔く。
田は心の田なんだと。
草は煩悩という草なんだと。
智慧という鋤を使って、心の田を耕す。
菩提の種を蒔いて、解脱の秋を待つ。
秋というのは収穫は秋ということですね。
座ってばかり居ると言うので、お釈迦様がこういうお話し
をされたのですね。
脾肉といえば脾肉のようですが、然しこれは真実ですよね。
世間の目で見るのと、出世間では見方が違うということで
すね。
比叡山の千日回峰でもそうですね、世間の目で見れば、あ
んなアホなことをしてと。
あんな暇があったら金儲けのことをすると。
信仰の無い人が見ればそう言うのと違いますか。
信仰のある人が見れば、あんなことはとても出来ない。
偉い坊さんだなと思いますね。
信仰も深まってくると、一般の方で、あの回峰に付いて廻
る人もあるそうですよ。
私もテレビで見たことがありますが、山を歩く速度は走る
が如しでした。
そういうことは、未来(後生)ということに目覚めなけれ
ば。
仏道というものは、いったいどういうものだということを
分かってこなければ、出世間の道ほどアホらしいことはな
い。
なにを楽しんでそんな処へ座ってるんだと、こうなってく
る。
然しながら、世間のままでいったら救われない。
世間の中に居りながら、出世間の道を求めることはできま
すよね。
優婆塞、優婆夷はそうですから。在家の人ですからね。

維摩居士(ゆいまこじ)という人がありますが、覚りの境
地では菩薩なんですよね。
維摩経というお経がありますが、その維摩居士が病気にな
ってね。
その維摩居士という人は、仏様の浄土に居る人なんですが、
この世へ生まれてきてインドへ生まれるんですね。
そしてお釈迦様の衆生済度のお手伝いをする。
在家の人になってね。
そういう使命を持って生まれてくるんですね。
そういう人だということになってますね。
だから覚りは高い。
菩薩ですからね、もう仏に近い菩薩。
或る時、病気に成りまして、お釈迦さんが弟子に、見舞い
に行きなさいというわけですね。
舎利弗に言うたり、目連に言うたり迦葉に言うたり他の弟
子にも見舞いに行けというけど、皆はよう行かんのですね。
それは何故かといいましたら、お加減はどうですかという
ような話ではなく、どうしても仏道の話になってくるわけ
です。
そうすると、下手な事を言うとやり込められるんですね。


「維摩経の話」

そんなことを言うたら、こうではないかとか。
それはよく分かってるんです、私はここをこう言うたと、
その時にあの人にこう言われたと。
もう行くのは嫌だ、またやられてしまう。というような返
事がお経の中に出てくる。
それでお前が行け、いや私はどうもと。
終いに文殊のところへきて、仕方が無い、文殊よお前が行
きなさいと言った。
では私がお受けいたしますというて、文殊菩薩が見舞いに
行くのですよ。
すると弟子たちが、さあ、文殊菩薩と維摩菩薩と会うのだ
から、きっと我々の勉強になるような場面が展開するに違
いないと。いろんな法論が出てきてね。
単なるお見舞いと違うから、お見舞いの内容であっても仏
法の内容になるはずだから、これは聞かないといかんとい
うので、皆が付いて行くんですね。
ところが大勢で行くと、座る場所がなくなってくるわけで
すよ。偉い人から先に菩薩方が座っていくから、舎利弗や
目連なんか阿羅漢はもう座る場所が無い。
ゆっくり座って法を聞きたいのに座る場所がない。
そして舎利弗だったか目連だったか忘れましたが、居士に
我々は何処へ座ったらよいのですかと聞いたんですね。

すると居士は、お前は座るために来たのか、法を聞く為に
来たのかと言われるのです。
座の為に来たりしや、法の為に来たりしや。
とお経ではそうなってますね。
そういうお経なんですよ、維摩経というのは。
それから文殊菩薩との話は、空の話になってくるんですね。
空というのは、こうだと限定出来ないものなんですね。
空だから、絶対だからね。
始めのうちは、こうです、こうだ、ああそれはこうだなと
二人が言って、そして文殊がこうだ、と言って、次に居士
は答える番ですが、答えないんですね。
その答えないというのは、詰まってしまって答えないのじ
ゃなくて、もう空というものは、説明してしまったらもう
言葉に出してしまって、もう絶対の世界は言葉に出して説
明したり文章なんかで現わせることは出来ないというので、
もう黙ってるんですね。
知らんから黙ってるのと違うわけです。
ぐちゃぐちゃとしゃべっている文殊よりも、黙ってる居士
のほうが一枚上だということなんですね。
「維摩の一黙雷の如し」こういう言葉がありますね。
何も言わない。