和尚さんの法話 『 輪廻転生 』
俗我というのは、霊魂ですね。
これを極端にとりましたら無いと。
あの世は無いんだと。
霊魂というものは無いんだと。
輪廻というものも無いんだと。
そういうふうに、俗我を揆して無と為さば則ち善業の子を
壊す。というのは、つまりもうあの世は無いという考えで
すから、世俗的な我。霊魂。霊魂も無いんだと。
死んだら終いだと。
こういう考えですと、もう死んだら終いなら後は野と慣れ
山となれと、やりたいことをすればいいと、こんな気にな
らなくもない。
あの世が有って、因果の道理もあり、霊魂は不滅だと思う
たら、悪いことはしたらいかん、善いことをせんならんと、
こうなってきますね。
だから霊魂も無いというと、折角善いことをしようと思う
人の芽を積んでしまうようなことになる。
あの世が無いのならなにもこんな苦労はしなくてもいいと、
こんな気を起こしてしまって、太く短く生きようかと、そ
んな考えになってるのが現在の時代ではないでしょうか。
いろんな犯罪がありますが。これはもうあの世を信じてい
ないですね。
九、 有を執すれば病をなし、空を執するも亦然り。
要するに、有我か無我かですよね。
有一辺倒でも具合が悪い。
空一辺倒でもいかんというのですね。これもコツですね。
お経の続きです。
若し、空を執して(執着して)始めから終わりまで空だ空
だ空だと、有は全く間違いだと、空で押し切っていくよう
な考え方ですね。
それは空を執して始めがあり終りがあるんだという考え方
を為せば、空も亦空なんだと。
限定出来ないということなんですね。
これが空だといっても、それも空なんだと。
空という一つのものがあるんじゃないんです。
仮に言うと空だという言葉になるけれども、それじゃ空と
いうものはいったいどんなものだというと、ああでもない、
こうでもないと。
そのへんが禅宗の禅問答のおかしなところだそうです。
履き違えてるんですね。
空の性格も亦空なれば、空を執するを病と為す。
空でも病なんだというのですね。
空だ空だと言うのもそれもいかんのだと、そういう考えは
除かないといかんのだと。
善男子、赤田薬はよく諸病を癒せば、若し病ある者これを
服せば必ず癒ゆるも病癒ゆれば薬は病に従って除くべし。
これも例えですが、当時印度に非常によく効く赤田薬とい
う薬があったんですね。
それを例えにもってきてるんですね。
赤田薬というのは万能の薬だということなんですね。
薬というものは病気のときだけ飲むものだと。
病気でもないのに飲んでたら余計に病気になると。
だから病気がある間は飲んでたらいいが、病気が治ったら、
もう薬は飲まないんだと。
空の薬を儲ければ。例えば空というのは薬なんだというこ
とですね。なんで空という薬が必要なのか。
有の病を除かんが為だ。
本来は、有が病で空は薬だと。
だから空を説く必要があるというのは、一般が有という病
にかかってるから、その病を除くために空という薬が必要
なんだと。
有にばっかり囚われていたら、何時までたっても輪廻は出
来ない。我に囚われるんですね。
だから無我になれ、執着するなというのがそこへくるわけ
です。
霊魂があるのだからと、それに囚われてしまったらそれは
もう病なんだと。
だから空を説く必要があるんだと、そういう人のために空
を説く必要があるんだということです。
空を執するも亦然りと。
有を執すれば病となり。空を執するも病となる。
どっちも囚われてそればっかり一辺倒。
そうなるとそれは病だと。
健康な考え方ではない。
間違いだというわけです。
然しながら、有見と空見、どちらをとるか。
空の一辺倒をとるか、有の一辺倒をとるか。
二者択一となったら、有見を起こすは、空見を起こすより
も勝る。
執着というのは煩悩だから何に執着をしてもいかんのです
が、どちらをとるかというと、空の執着はいかんというの
ですよ。有のほうがいいと。
それは霊魂不滅を認めて、因果の道理を説けるから。
空に執してしまうと因果の道理は説けない。
そういうところがキツネに生まれ変わったという話になる
んじゃないでしょうか。
本当の空ならば、有という病は治すけれども、薬の空を持
するものがなければならん。
では空は薬だと。有は病気なんだと。正しい空の薬で以っ
て、有の病気は治るけれども空の病気は治らないというの
ですよ。
それは治しようがないと。
薬自体が間違ってるから。
この辺をみなさん咀嚼してもらったら、空と有。
霊魂不滅ということと無我。
これを理解してもらうためにお経を出したわけです。
この辺が先に紹介した方々は分かっていない。
だから結局断見に陥る。
空のとり間違いであり、有のとり間違いである。
どっちも間違ってる。
同じ間違いなら霊魂を認める間違いのほうがいいとお釈迦
さんはおっしゃってるんですよ。それはそうですね。
要するに、今の我々は空という勉強をしなくていいと和尚
さんはおっしゃいます。
霊魂はあるんだと、輪廻はするんだと。
その輪廻は何によってするのかというと、輪廻はこの世と
あの世と一か所を行ったり来たりするのと違いますからね。
この世は一つだけど、あの世というのは地獄があり、餓鬼
があり、畜生もこの世にもあるがあの世にもあり、修羅が
あり、人間もこの世にもあるがあの世にもあり、天上界は
あの世ですね。
天上界に、欲界の天上界があり、色界の天上界、無色界の
天上界がある。
それは善いことをしては善い世界へ行き、悪いことをして
は悪い世界へ行きと。それを輪廻をするので、この世とあ
の世を行ったり来たりと違うのですよ。
だからこの世のことは我々は分かってますね。
日々経験をしてるんだから。
あの世のことは、過去に経験してあるのだけど、忘れてる
わけですよ。
然し、お経の説かれてることを辿っていったら、記憶は忘
れてるけど前世はあったんだなと。そうすると未来もある
んだなと、こういうふうに分かりますよね。
だから空ということは、霊魂不滅を100%分かってしま
った人でないと、本当の空ということを学ぶ必要が無いん
です。
中途半端でやると、紹介したこの人たちのようになってく
るわけですね。
そしてもうひとつは、「教有って観なければ則ち罔(くら)
く 観有って教なければ則ち危し」
これは中国の、「教観網宗」という書物の一説です。
教というのは、学問という意味です。
観というのは、座禅ですね。
座禅観法という言葉がありますね、法を観るということで
す。
この法というのは、心で、心眼でないと観れないですね。
法というのは、仏法とか、教法というのは抽象的な教えと
いうような意味になってくるのですが、ここでの法という
のは存在という意味があるのですね。
心の中にある、存在する立体的なそういうのを観るという
意味です。
弘法大師の歌に、
「空海の心の中に咲く花は弥陀より他に知る人は無し」と
いう歌がありますね。
心の中に咲く花というのは、つまり「法」なんですよ。
花ばっかりじゃありません、山もあれば川もあるし
何でも現れてくる。
心の中に現れてくるものを観る。それを「観法」と
いいます。
作品名:和尚さんの法話 『 輪廻転生 』 作家名:みわ