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和尚さんの法話 『 輪廻転生 』

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うと、自分流に解釈しているのが会通。
学問一辺倒で、信仰が無いと謙虚な気持ちが無くなってし
まって、増長慢になってくるんですね。

前にありましたが、或る坊さんの霊が人に乗り移って、
いろんなことを言う。
仏教をもの凄く知ってるんですね。
そんなに仏教のことをよく知ってるのにどうして人に
乗り移ったりするのか。
どうしていい所へ行っていないのか、と聞くと。
わしは学問ばっかりして信仰が無かったんだ、と。
出世したいという気持ちはあったけど、本当の道を求
めるという道心が無かったがために、こういう世界へ
落ちたんだと。
告白をした話がありました。そういうものですね。


五、 智者学べば菩提を成じ、愚者学べば生死を
成す。
智者というのは、本当の仏教者。そういう人が勉強す
ると、悟りを開いて生死輪廻を解脱して、例えば極楽
へ往生出来るけれども、この愚者というのは本当の道
理を本当に掴むことが出来ない。かえって禍をきたす。
余計に輪廻の原因を作ってしまう。
先ほどの文の人は皆これになってるんじゃないかと思
うのです。大変僭越な言い方ですけれども。


六、 牛水を飲めば乳となり、蛇水を飲めば毒と
なる。
それと同じなんだということですね。
牛は水を飲めば乳になるけど、蛇は水を飲んだらそれ
は皆毒に成る。
同じことを学んでも、人格によってそういう違いが出
てくるということです。


七、 第一義諦の故に無我を説き、世諦の故に有
我と説けば見の中に堕せず。是の如く有と無とは皆通
ず。虎の子を睨むが如し。若し急ならば乃ち傷つき、
若し緩なれば乃ち失す。是の如く、若し定んで我を説
けば即ち身見に堕し、定んで無我を説けば即ち邪見に
堕す。過ぎたると及ばざるとは俱に過有り。若し、定
んで無我を説けば即ち過ぎたるとなし。若し定んで有
我を説かば則ち及ばざるとなす。故に経の中に説く、
まさに二辺を離れて中道を説くと名づく。
第一義諦、これは勝義根の勝義諦と、こういう言い方
をする場合がある。
諦はあきらかというんですね。
本当のということですね。それを第一義諦ともいうの
ですね。

勝義諦の故に有我と説く。
だから仏教は本当は無我なんだと。
一般の人に分かるように、人々のために一方では有我と
いうことを説くんだと。
そういうふうに説けば辺見に陥らない。
辺見というのは、偏ってるということですね。
仏教では辺見が二つあって、両極端があって、
一、 断見
一、 常見
この二つを辺見というのです。

だから第一義諦は、無我だけど、主体からいえば有我だ
と、こういうふうに説いていけば、上手に使い分けが出
来れば、それは辺見に陥らないということです。
断見にもならないし、常見にもならない。
断見というのは、あの世が無いという考え方で、最初の
文を書いた人たちは皆、断見ですよね。
あの世が無い、死んだら終いだという人が断見です。

常見というのは、この状態、男は何時生まれ変わっても
男は男で何処までも男で、女は何処まで生まれ変わって
行っても女。牛は牛牛何処までも牛。馬は馬で何処まで
も馬。それが何処までいっても同じなんですね。
それを常見というのです。

仏教は、牛に成ったり人間に成ったり、男に成ったり女
に成ったりですね、それは根本が空だから、あっちにも
変わりこっちにも変わり業によって変わっていくんです
よ。中道といいますね。

是の如く有と無とは皆通ず。
というのは有でもいいし無でもいいんですよ。
無我と有我との説くその説き具合ですね。それが非常に
微妙なんですよね。
ちょっとすると間違う。
つまり寅でも猫でもよろしい、子供を噛んで巣を移ると
いうことがありますね、虎はどうか知りませんが、猫は
子の首筋を咥えて時々巣を変わりますね。
首筋をきつく噛むと怪我をします。
ところが緩かったら落としますね。
だから親は怪我はしないで落とさない。
そこのコツが分かってるですよね。
それなんですよ。
無我と有我との説くコツがあるんですね。
若し定んで我を説けば即ち身見に堕し。
というのは我なんだ、無我と違うんだ我なんだと、お釈
迦さんが間違ってるんだと。

そういうふうに極端に無我や空は間違いなんだ我が本当
なんだと、徹底的に我を説く。
そういう説き方をするのは、「身見」という間違った考
えがあるんですね。

例えば、霊魂というのは見えますね。
見える人がよくテレビに出てきますね。
写真にも写る。だから霊魂の身体があるわけですよ。
霊魂というのは身体があるんだ、それが何処までも何処
までも続いていくんだ、というふうに考えるのが「身見」
というのです。

仏教は無我であり空だから、この身見は煩悩があるあい
だは、この身体はあるけれども、生まれ変わって修行を
して善いことをして、上へ上へ生まれ変わっていきます
ね、欲界から色界、色界から無色界というふうに上へ上
へ生まれ変わっていきますね。
無色界というのは色が無い世界なんですよ。
だからこの天上界の無色界へ生まれ変わったとしますと、
もう身体が無いんですよ。精神だけです。

それが身体があるんだ、と思うのが身見という煩悩なん
です。

それから、定んで無我を説けば即ち邪見に堕す。
無我だ無我だ、空だ空だと徹底的に無我を説く。
これは邪見、というのは、正見に対するこれも間違いな
んです。誤った見というのは見解ですね。
だから善因善果の因果の道理は無いんだ、というのも誤
った見解で邪見というんですね。

過ぎたると及ばざるとは俱に過有り。
過ぎてもいかん。及ばざるもいかんと。
中道を得なければいかんのだと。そこがコツなんですね。
壺どころということですね。それをちゃんと理解しない
と、どっちかに偏ってしまう。

故に経の中に説く、まさに二辺を離れて中道を説くと名
づく。
二辺というのは、断見と常見。
この二つを離れて中道を説かなければいかん。
第一義諦では無我は無我でいいけれども、世俗諦には無
我なんだと、そこの使い分けですね。

八、 真我を執して有と為さば乃ち見の牙に傷つけ
られ、俗我を揆して無と為さば則ち善業の子を壊す。
我々が有るというのは、形の有るものを言うわけです。
形の無いものは無いと。
有るというものは必ず形を持ってるものなんですね、我々
が有るというものは。
何処にあるんだ、これだと。
そういうふうに形の有るものを我々は生活の中では有ると。
ところが形が無いものは無いという。
有形。無形。だから有るか無いかというのは形が有るのか
無いのか、ということなんですね。

形の無いものは我々は見えることがない、とらえることが
ない。掴むことが出来ない。
ところがこの真我というものは、形が無いものなんですね。
真我というのは、仏性であり、涅槃であり、真如であり、
形が無い。立体的じゃない。
だからその真我を有る形にとったらいかんということです。
形が有るという意味で有ると思ったら違うんだということ
です。
これはもう絶対ですから形が無い。
そうすると見の牙に傷つけられ俗我を揆して無と為さば則
ち善業の子を壊す。というのは、邪見なんだということで
す。間違いなんだと。