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和尚さんの法話 『 輪廻転生 』

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 私は、此の鋭い見解は前人未発の世界文明批評である
とさえ思っている。
(だからその言葉に非常に共鳴してるわけですね。)

――翁の著書の中から禅論に出てくる輪廻を考える根本
的理解の所で、参考になるだろうと思われる文章を紹介
してみよう。
(禅の書物の中に輪廻ということがいろいろと出てくる。
例えば百丈訳というのがそうですね。
前世では或る坊さんであって、その教えが間違ったがた
めに、大勢の弟子を惑わした為に、現世ではキツネに生
まれ変わった。
死んで生まれ変わってもまたキツネに生まれる。
過去五百回キツネに生まれ変わった、という話を以前に
もご紹介しましたね。

中国の話しで、百丈山という山があって、そこに百丈禅
師という坊さんがお住みになって、日々妙法を説く。
そこへそのキツネが現れて、どうぞ私を救って頂きたい。
私は間違ったことを説いたが為に、自分では信じてたん
だけど、死んでみたら大間違いをしていたんだという事
が分かった。
その報いでキツネになりまして、過去五百生の間こうし
てあいも変わらずキツネです。
なんとかしてもう一遍、人間にかえりたいと思って、こ
うして和尚さんの説法を日々こうして来かせて頂いてお
ります。
どうぞ私を救って頂きたい。
そこでその禅師が、こうじゃぞと説いて頂いて、ああ、
分かりました私は間違っていました。そのおかげで今度
私は人間に生まれ変わることが出来ます。
裏山へ行ってもらったら大きなキツネが死んでいます。
それは私の身体でございますから葬式をして貰いたいと。
そういう物語が全集の話に出てきます。
これは輪廻の話しですよ。

ところが今の禅宗の坊さんは説明がいろいろ様々のよう
です。
そういう全集の参考になると思うからというので、次の
文です。)

「釈尊以前の古代印度の三世観的世界観に於いて、無我
説と反対に有我節であって、(無我ということを説いた
のはお釈迦さんが初めてですから。それ以前は霊魂不滅
は有我だったんですね)我(アートマン)というものは
梵(ブラフマン)(ウパニシャット(印度哲学)に於い
ては一切の根底本性と考えられるもの)と一如不二と考
えられ、(我々の我が、なんといいましょうか、宇宙に
ひとつの梵という大きな大河があって、そして我々が小
河なんだと。
その小河の間は救われない。
その宇宙の大河である梵と一体となったときに初めて救
われるんだという、そういう哲学なんですよ。
それが我というのを認めてるわけです。
小河、大河といってね。
その辺がちょっと仏教と似てますね。)

この我が六道輪廻して生死を繰り返して三世に流転する
と考えられていたので、その我を絶対滅させて六道輪廻
三世流転から解脱せんというのである。
(これはまあ、これでいいですね)


――三世輪廻そのものが霊魂不滅の有我的印度世界観の
生んだ妄想に過ぎない。」
(輪廻ということは、霊魂不滅の有我的印度的な世界観
であって、これはお釈迦さんの説じゃないんだというの
ですね)

――仏教、禅に於ける輪廻転生についての諸問題を考え
る上で貴重な意見であると思う、あえてここにご紹介し
ておくのである。

―― 駒沢女子単大副学長 東隆真 ――



三、 唐の頃、潙山霊祐(いざんれいゆう)は法堂
でみんなに示した。(これもお経に出てくる因果の話し
ですね、輪廻転生のね)
「わしは死んだあと、此の寺の下で一頭の水牛となって
生まれ変わるだろう。その証拠に左脚に五つの文字を書
いておく<潙山僧某甲>と。――右の話は景徳伝登録九
巻に出ている。
霊祐ほどの大悟徹底した大和尚なら、生死を超越した後
の最後は、極楽浄土とやらに大往生するにちがいない。
ところが実はそうではない。
霊祐は今死んだ後は一頭の牛に生まれ変わりたい。
そして門前の農家のお手伝いをしたいと念じている。
 死んだあとも世の為、人の為に役に立ちたいという誓
願を立てているわけである。

霊祐が文字どおり牛に生まれ変わったかどうかはいま
問うところではない。
(問うところではないとはおかしいですね。これは問わ
ないといかんのですよ。これは禅宗の方だから、いい方
へいい方へ。
これは有名な坊さんですからね。
これは牛に生まれ変わったんだと思います。
そして牛に生まれ変わって、一軒の農家の手伝いをした
いと。
生まれ変わるのであれば、もっと他のなにかに生まれて
きて、もっと多くの人に役立つ方法があるのと違います
か。
なにも農家の手伝いだけが全てではないと思います。
手伝いということに重点を置くのであれば、世の為人の
為ということに重点を置くのなら、と思いますね。)
これは場合によっては、お前は来世はこうなるぞという
ことを知らせてるということがあるわけです。
良くも悪くもね。

例えば、弘法大師は、お前は兜率天へ往生するぞと、そ
して来年三月寅の刻というお知らせがあったんです。
ちゃんとそういうお知らせがあったんです、これはいい
ですね、天上界へ生まれるのですから。

和尚さんのお爺さんもそうですね、臨死体験のとき、極
楽から極楽へ往生している時宗の坊さんが出てきて、そ
して貴方は必ず極楽往生出来ますと。
然しまだ寿命が残ってる。
本当に貴方が亡くなるときに阿弥陀様が必ずお迎えに来
て下さいます。其の時私もお供をして参りますと。
これは和尚さんのお爺さんが極楽往生出来ますというこ
とを先に言われてあるのですね。
これはいいことですね。
ところが、お前はそんなことをしていたら来世はこうな
るぞと、言われることがあるそうです。

ですからこの話から、お前は牛に生まれ変わるというこ
とを言われたんじゃないかと思うのです。
この人は禅宗の坊さんだから、悟ったような文章になっ
てますけれどもね。

それから、一休さんも人気はあるのですけれどもね。
あの方は、痴呆になったんじゃないですか。
死にたくない、死にたくないと言って、そして自分のう
んこを掴んだ。
よく痴呆の病人さんが自分のうんこを掴むということが
あるそうです。
そういうことを普通の坊さんが出来ることではない。
これは立派な往生だと言うのですよ。
そして死にとうない、死にとうないと。
皆は死にとうないと思うていたって、死にとうないとは
言えないものだと。
一休さんはそれを言うた。
死ぬとうないから死にとうないと、悟ってあるんだと。
こういう判断をするわけです。

あの方は立派な言葉もありますね、「角松は冥土の旅の
一里塚目出たくもあり目出たくもなし」と。これはその
とおりですから宜しいですね。
ところが或る時、初夏の時期に比叡山へ上がって、ちょ
うど比叡山の坊さんが、お経の虫干しをしてたんですね。
それをみた一休さんが、こんなものと言って、そのお経
の上へ寝そべって、わしは生き仏の虫干しだあと言って、
お経の上へ寝そべった。
悟ってるからあんなことが出来るんだと。
こういう解釈するわけです。

お経というのは絶対に上へ乗ったらいかんのですよ。
よく皆さんが、仏壇の前の机のお経の上へ数珠を置いて
ますね。それはやはりよくないそうです。