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和尚さんの法話 『 輪廻転生 』

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いないつもりでも変わってるんですよ。
だからそこのところがもう変わっていないと言ったほうが
分かり易いんですね。

この霊魂がそのまま行くと言ったほうが分かり易いのです
けれども、このミリンダ王が仏教のことを知ってるものだ
から、だからこの那先比丘もうかつなことを答えるわけに
いかない。
正式に答えなければいけない。
相手は造詣が深いんだから。
だから純粋な仏教を説かなければいけないのです。

霊魂はあるんですよ、の世へすっと行くんですよと、こう
いうと分かり易いと思うのですが、専門的になってくると
ちょっと分かり難くなるのですが、要するに我々が記憶を
持ったままあの世へ行くのですよ。
人格もそのままで変わらない。

ただ、この世の善悪の行いによって、あの世へ行った名色
が、地獄へ行くのやら、天上界へ行くのやら、極楽へ行く
のやらは、それは分からない。
其の人のこの世の善悪の業によって、罪の名色が変わって
いく。そういうことですね。
まあ、兎に角言葉はこうなっていますけれども、あの世へ
行くということなんです。死んだらあの世へ行くのです。
これは「那先比丘経」というお経の一説です。


「輪廻するものは何か」

先ほどの続きになります。
これによると生まれかわるのは「他の<新しい>名称・形
態」ということである。
 ここでいう「名称・形態」とは、心のような言葉でしか
表せない抽象的なものと身体のような具象的なものを指し
ていると考えてよい。つまり、心と身体とが合わさったひ
とつの存在をここでは想定している。

 現に存在している我々もそのような存在である。
そういう現在が死のあとに新しい存在として生まれかわる、
というのがここでの解答である。
 つまり、現在の存在がそのまま次の世に生まれるのでは
ないということがここでは主張されているのである。
(次の世にそっくりそのまま生まれ変わるんじゃないんだ
と言ってるんだと、いうことですね)

――つまり、生前の存在と死後の存在とは、別のものでは
あるけれども、後者は前者から生じた、と。個体的な連続
性は否定するけれども、業のような影響力は死を超えて伝
わるというのが仏教の考え方である。
 これによってわかるとおり常識的な意味での死後の世界
への生まれ変わりは仏教は認めていない。
(この常識的なという意味は、死んだらこのまま霊魂はあ
の世へ行くということです。それを否定するといってるん
ですね。それには、仏教は空を説き無を説くからというの
が裏にあるからですね)

――輪廻するものは何かを考えてみると、物体的に類似す
る何かがあの世まで連続するということは否定されるから、
(否定はしないはずなんですけどね。
その辺がこの田中さんという人が専門的に解こうとしてる
からこういう表現になってくるんですね。それが本当に、
那先比丘のように解くのであればいいのですが、それがど
うもそうではないように思います)
いわゆる霊魂のようなものが不滅のままあの世でも存在し
続けるという考えは認められないだろう。
(だから霊魂不滅ということは、この人は否定しているわ
けです)

――新しい物体がそのような名称・形態を持つかはあの世
のことなので想像もつかない。
――そもそも、自我なるものが存在しない、というのが仏
教の無我説であるのにもかかわらず、自我を立てるから、
そこに輪廻の閉された世界そのものも成立するのである。
(輪廻というものを持ち出して解くべきものではない、と
いう考えなんですね、この人は。ところが一般には霊魂不
滅ということを説くものだから、そんなものは間違ってる
んだと。霊魂がそのままあの世へ続いてるんだというのは
間違いなんだというのが田中さんの考えなんですね)

――結論として、仏教は来世に何らかの影響力を認めつつ
も、現在の延長のような形での輪廻の主体や往生の主体を
全く認めない、ということが重要な点である。
(本当の仏教の意味からは大分ずれてるようですね)
―― 武蔵野女子大学教授 田中教照 ――

これは、武蔵野女子大学教授 田中教照というこのお名前
から、この人は僧侶であると思いますね。僧籍のある仏教
学者。
ところが仏教大学とか龍谷大学とかは仏教の大学ですが、
この大学は普通の大学ですね、ところが仏教をひとつの単
位としてあることがあるそうです。そうするとやっぱり仏
教の先生を呼ばないと、そういう授業はできませんからね。
だからたまたま仏教学者がそこの先生になってる場合があ
るんですね。
武蔵野女子大学というのは仏教には直接関係はないと思い
ます。
ところがこの田中さんという人はそうとう仏教を知ってる
人でのようですから、おそらくは坊さんの仏教学者だと思
うと、和尚さんの意見です。

次の方は、駒沢女子単大副学長 東隆真。
駒沢大学は、曹洞宗の大学ですよね。この方は、曹洞宗の
坊さんで、仏教の学者だそうです。
この方が書いた文です。


二、 故伊福部隆彦翁は、老子を教祖とする人生道場
という結社を創立した人であって仏教者ではない。
 然し、仏教に造詣が深かった。
「老子道徳経研究」のほか、「老子眼蔵」とか「正法眼蔵
新講」(正法眼蔵というのは、道元禅師のお説教集ですね。
お弟子さんたちが書きとったものですね。)などの著書が
ある。
 仏教は、インド的三世観の中で生まれ、(インドは仏教
以前から三世、輪廻ということを説いてたんですね)三世
観のかかわりの中で育っていった。仏教者は、ときに三世
観を利用し(ジャータカ)(このジャータカというのは、
お釈迦様が前世でこういうことがあったと、前世のことが
お経に出てくる。例えば、お釈迦さんが過去に於いて飢え
た虎に身を投げて、その飢えを救ったというようないろん
なお釈迦さんの過去の生まれ変わりの物語があるわけです。
そういうのをジャータカといいます。そういうのを聞かさ
れるとそれを教訓にしますね。それを利用したということ
です)



「禅論に出てくる輪廻」

ときに悪用した(宿業思想の固定化)。
然し、三世観の観念的枠から超えた時、仏教ははじめて
本物になる、というのが、翁の見解であった。
(その三世を超越しないといかん。その三世に囚われて
いるとだめなんだ、そんなものは超越しないといかんの
だというのが、この翁の見解だと)

 此の点は、凡百の仏教僧(普通の名前だけの一般の坊
さんというのですね)の理解を超えるところであったが、
仏教僧ではない翁にしてはじめて喝破することが出来た
ことであろう。
(仏教者の中ではこんなことは言いにくい。
然し坊さんの枠を外れてる人だから、門外漢の人だから
何を言ってもいい人だから、歯に衣着せずにこういうこ
とが言えるんだと、こういう意味にとってるんですね。

然し本当のことを言ってるんだとこういうことを言って
るんです。
なかなか坊さんだったらこういう本当のことを言いにく
いんだと。
この人はそういう束縛をされないから、仏教という束縛
がないから自由に何でも言える。本当のことを言うとこ
うなんだと。こういうことです)