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和尚さんの法話 『 輪廻転生 』

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そういうことで、印度は兎に角、五蘊と言ったり名色と言
ったり、同じものでありながら名前が時々変わる。
自由というのか、融通がきくというのか、時々全く同じも
のでありながら名称が違うということがよくあるんですね。

例えば、滅尽定というのがありますね。
「滅尽定」実際の我々の心作用、煩悩というものを全部滅
尽してしまう。
だから禅定に入ったら無念無想で何も分からないそうです。
意識作用が全部止まってしまうというのか、消えてしまう
のですから。また戻るのですけれども。そういう名称。

「滅受想定」というのは、受想のこの二つで代表してます
けど、受想行識のことですね。
受想へ重点を置いて、滅受想定という名前になってある。
滅尽定は煩悩が全部滅尽してしまうと言ってもいいし、心
が全部滅尽してしまうと言ってもいいのですが。

ではその心というのは何かというと、受想だけを代表して
堕してますかれども受想行識ですね。
そういうふうに同じ状態でありながら、言い方が違うこと
があるわけですね、印度は。それはそれでいいわけですけ
れども。

ここでは名色のことをこの田中さんという方は、名称と形
態と言ってるわけですが。
名色というのは、身体と精神だと、こういうことです。


ナーガセーナ長老は答える。
「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれかわるのです」
王「この<現在>の名称・形態が次の世に生まれかわるの
ですか」
長老「大王よ、此の<現在>の名称・形態が次の世に生ま
れかわるのではありません。
大王よ、この<現在>の名称・形態によって善あるいは悪
の行為(業)をなし、その行為によって他の(新しい)名
称・形態が次の世に生まれかわるのです」

と、こうあるのですが、これは非常に微妙な説明ですが、
次にお経のとおりを出してあるのですが、まあ同じような
ことですね。



「那先比丘経」

ミリンダ王那先比丘に問うて曰く「尊者那先、現在の名色
と未来の名色とは同じきものなりや」
那先曰く、「然らず、現在の名色が善、又は悪の業を作り、
此の業の為に他の名色を生ずるなり」
王曰く「然らば新生の名色は悪業と別離するものにあらず
や」
那先曰く「若し名色生ぜずんば則ち止まん。然れども大王
、名色は必ず生ずるが故に悪業を離るることなし。――現
在の名色と次生の名色とは異物なり。然れども次生の名色
は現在の業の結果なるを以てその悪業と離れざるなり」
――那先比丘経――


このお経では非常に分かり難いと思うのですが、ここでい
う「名」は問題ないわけです。
別の言葉でいえば霊魂のことです。心ですからね。
名色のこの「色」のほうが問題なんですね。
色というのは、この我々人間でいうと肉体のことです。
身体ですから。我々の身体のことを色。
色は物質という意味です。
色形を持っているものというわけで、人間の場合は肉
体になるわけです。
ところが、この身体というものは、肉体だけが身体じ
ゃない。霊魂も身体があるんだということです。

五根とか六根とか。六根清浄という言葉が出てきます
ね。
五つの感覚器官。眼と耳と鼻と口と、そしてこの身体
の触角。それを掌ってる感覚器官が五つある。
これを五感といいます。
これは医学でも心理学でも同じことで五感といいます
よね。
仏教では、五根といいます。それにもうひとつ入れた
ら六根になるわけです。
眼根・耳根・鼻今・舌根・身根。これが五根。
ここにもうひとつ意根というのが入ってくると、六根
になる。
根は識でもあります。
根というのは、我々肉体でいいますと、感覚器官です
から、神経です。
神経も物質ですね。細胞とかそういう微細な細胞です
ね。ですから物質ですよね。
物質ということは、色という言葉でも表せるわけです。
いまはこの根の話に移りますけど、この根というのは
肉体でいいましたら、今言う神経です。
神経も肉体の一部分ですね。物質ですね。
ところが、現在の仏教学者の方々は、お経にちゃんと
出てくるんだけど、根が二つあるというのですね。
二種類あるんだと。
それは「扶塵根」(ぶじんこん)という難しい名称で
すが、これは神経です。つまり肉体ですね。

其れに対して、「勝義根」という名称があるのですが、こ
の勝義という言葉は本当の、という意味なんです。
真実ですね。本物であると。
扶塵根は仮のもの。
だから我々の感覚器官にも「扶塵根」と「勝義根」と二種
類があって、扶塵根は今言うように神経。即ち肉体なんで
す。肉体の一部ですね。
この勝義根というのは、霊魂そのものなんです。
霊魂にも感覚器官は持ってるわけです。

だから地獄へ行ったら痛いとか熱いとか感じるわけですよ。
極楽へ行ったら安らかなんですよ。
感覚する能力を持ってるから。それを勝義根というのです。
だから肉体も、そんな言葉は無いと思うのですけれども、
扶塵身と言えなくもないと思うのです。
すると、勝義根は勝義身と言ってもいいわけです。
だから、ここであの世に生まれ変わる色ですね。
名は心ですけれども、名色の色。形態と言ってるものです
ね。
それは、扶塵身ではなく、肉体があの世へ行くわけがない
から。
ところが勝義身は本当の身体。肉体は仮の身体ですから焼
いたら灰になる。

ところが本当の身体というのは、焼いてもどうしようとも
決して無くならない。
だから地獄へも行けば、餓鬼にも行く、畜生道にも行くし、
天上界へ行く人もある、極楽へ行く人、その身体は勝義身
という身体が行く。それは霊魂そのものなんです。
ところがこの霊魂という言葉も仏教学者は嫌がるそうです。
お経を読んでいって、仮に五蘊とか名色が出てきたときに
、色が肉体であるのか、霊界の身体であるのか、そこを読
み分けないと、本当の意味は掴めないということになって
きます。

そこで、話がちょっと長くなりましたけれども、現在の名
色が生まれ変わるのかどうとかと言ってるのは、勿論肉体
ではないですね。
このミリンダ王というのはもう仏教は詳しのですよ。
だからこの勝義根や扶塵根はよく知ってるはずなんです。
だから肉体があの世へ行くなんてことを聞いてるのと違い
ますね。
あの世へ、霊魂としての心と身体とが行くのかと、こう聞
いたんですね。
那先曰く、現在の名色が行くのではないのだと。


お経の文章になりますが、
ミリンダ王那先比丘に問うて曰く「尊者那先、現在の名色
と未来の名色とは同じきものなりや」
那先曰く、「然らず、現在の名色が善、又は悪の業を作り、
此の業の為に他の名色を生ずるなり」

この辺が説明し難いのですが、我々の精神というものは、
同じ状態でじっと止まっていないんですよ。
兎に角くるくると地球みたいに絶えず動いている。

あれを思い、これを思い、怒ってみたり笑ってみたり、喜
んでみたり泣いてみたり、これは皆阿頼耶識の中へどんど
んと入ってくる。
だから我々の心というものは、絶えず瞬間的に変わってい
くわけです。

変わっていくのだけれども統一されてるから、変わってい
ないように自分では思ってる。ところが変わってる。
だから況やこの世の心と、あの世の心は自分では変わって