和尚さんの法話 『 輪廻転生 』
輪廻転生ということでありますが、このようなお話し
は今日まで再々お話ししていると思いますし、また同
じようなテーマでお話ししたかと思いますので、重な
るところはご勘弁頂きたいと思います。
近年注意して見ておりますと、人間の死とか、或いは
死後の世界とかというふうな問題が非常にマスコミ、
テレビなんかでも取り上げられておるように思います。
和尚さんが、購読している雑誌をご覧になったところ、
昭和63年の3月号の「大法輪」という古い、仏教の
一般雑誌だそうですがご存じの方も居られるかと思い
ますが、その雑誌の3月号の特集が「今老死をどう迎
えるか」というテーマだそうです。
それから平成3年10月号の同じく大法輪。
これのテーマが、「死の準備と死後の世界」
こういう特集になっているそうです。
それから最近(このお話しをお聞きした頃)の出た大
法輪のテーマが「輪廻転生とは何か」こういう題にな
っていたそうです。
それからもうひとつの雑誌に「仏教」という雑誌があ
って、それの平成元年の1月号に「死を見つめる」と
いう特集ですね。
それから今年(お話しをお聞きした頃)の今月発行さ
れている2月号に「死」の特集。
和尚さんは仏教者ですから本屋へ行って、仏教に関す
る本を見ているとそういう書物がたくさんあるそうで
す。
「死と生の間」とかね。「死と生の接点」とか。
或いは「脳死」。「尊厳死。」「或いは臨死体験。」
そういうふうな、多少名目は違いますが同じような本
がたくさん出てくると。
皆さんも本屋さんへ行かれてそういうのをお気付きに
なってるのではないかと思うのですけれども。
そういうふうに死という周辺の問題が、非常に関心が
高まっている。
或いは精神的なことの流行かもしれませんけどね。
しれませんけれども和尚さんは、仏教者の立場から非
常にこれはけっこうなことだと。
正しい仏教の説くべきね、皆が注目してるんですから
ね、継承してくれると思うんですね、そういう問題に
対して。
そういうふうに雑誌の特集なんかで意見を求められる
のは、主として仏教者。或いは仏教学者。僧侶。
他の宗教家もそうですけどね、そういう方々は当然、
医者もそうですが求められる。
そういうときにそういう仏教者、或いは仏教学者が解
く意見が正しければいいのですがね。
そういうところに求められる人は有名な人ですよね。
私たちが知らない人でも、知る人は知るという人であって、
その道ではやはり立派な方々なんですよね。
ですからそういう方々の意見ですから、影響が大きい。
正しい仏教が影響することは結構ですけれども、大変僭越
な言い方ですけれども、これはどうもこんなことでは困る
と、これだったら解かないほうがましだということが、本
を読んでたらそういうところが出てくると和尚さんはおっ
しゃる。
むしろそういう意見の方が多いと。
これは我が意を得たりと、和尚さんと同じ考えを持ってる
人があるそうです。
ところがそういう意見は少ないそうです。
そこでこの大法輪の「輪廻転生とはなにか」と、いうその
中から、これはどうも気にかかることがあるそうです。
正しいことはそれでいいのですよ。間違ったことを気を付
けなければいけませんね。
幸福よりも不幸を気をつけないといかん。
善よりも悪を気をつけないといかんと思うのです。
そういうことで、本の中からお二人の意見をご紹介しよう
と思いますが、本に名前を出してあるので文章の終わりに
名前を書かせて頂きます。
一、 最近は「輪廻転生」に関する本なども出版され
て、真剣にいろいろと議論している人がある。
また、死んだらゴミになるだけだとニヒルに考えて輪廻転
生を否定する人もある。
また、仏教の開祖釈尊は「無我」を説かれた。仏教の根本
思想は無我といえる。そうすると、我のないものにどうし
て輪廻するのか、何が輪廻するのか。こういう疑問を持た
れる人もあろう。
このようなことに疑問を持った人が紀元前二世紀後半にす
でにいた。西インドを支配していたギリシャ人の国王ミリ
ンダである。(ミリンダ王は仏教に帰依した王)
彼は仏教僧ナーガセーナ(那先比丘というのですが)にさ
まざまな疑問を提出している。
その中に「輪廻の主体」に関する質問も含まれている。
それを次に紹介しよう。
(ここからは田中さんという方の訳です)
ミリンダ王問う。
「尊者ナーガセーナよ。次の世に生まれかわるものは何な
のですか」
この名称。形態というのは、この田中さんという人独特の
訳ですね。
これじゃあ誰もが何がなんだか分からないだろうと和尚さ
んがおっしゃる。
次に四角で囲んだ部分がありますが、これはお経そのもの
を和訳したお経ですが、文章の中に「尊者那先、現在の名
色」と。この名色を、名称・形態と、田中さんは二つに分
けてるんですね。
この名色という言葉を和尚さんのお話しの中にも時々出て
きますが、なじみの薄い言葉ですね。
これを別の言い方をしますと、「五蘊」(ごうん)といい
ますね。
般若心経に、五蘊皆空と出てきますね。あの五蘊です。
この五蘊の蘊というのは、集合体。集まりというのが蘊と
いう意味になります。
だから蘊蓄(うんちく)という言葉がございますね。蘊蓄
を傾けてお話しをするとかね。
自分の得た知識を傾けて解くとか話すとか、蘊蓄といいま
すね。集めて貯えてある。そういう意味ですね。
だからこの五蘊というのは、五つの集まりという意味で、
これをちょっとお話ししますと、色受想行識の受想行識が
名なんです。それで名色。
この受想行識というのは、我々の心なんです。精神です。
怒ったり笑ったり、いろんなことを考える。
我々のこの意識作用。心ですね。
心と、色は身体ですね。だから我々は心と肉体で出来て
いるということですが、それぞれ細々と説明があるので
すが、ここでは五つの大まかな意識作用を代表させてい
るわけです。更に一つにしたら心ですね。
色というのは物質のことで、人間でいいましたら身体の
ことですね。
これを五蘊といいます。また別の言葉で名色といいます。
心というものは名前はあるけれども、実際はここへ心を
持ってきて見せるということは出来ませんね。
我々は心というものはあるということは名前として分か
っていますが、これが心だと人に示すことが出来ない。
田中さんはそれを名称といってるんですね。
こう説明すれば分からなくはないですね。
形態というのは、要するに身体のことなんですよ。
四角で囲んであるお経の方は、名色となってますね。
「尊者那先、現在の名色と未来の名色と」
田中さんの方は、<現在>の名称・形態が次の世に生ま
れかわるのですか、と。名称・形態となってあるわけで
す。
だから形態というのは色のことをいってるわけですね。
名称のことは、名色の名のことをいってるのです。
そういうことですね。
「名色」
ですが形態という訳はちょっとどうですかね。
名称も和尚さんが訳するのだったら、「心身」と訳したい
と。
これでかたが付くと。そうですよね、心と身体のことです
からね。
は今日まで再々お話ししていると思いますし、また同
じようなテーマでお話ししたかと思いますので、重な
るところはご勘弁頂きたいと思います。
近年注意して見ておりますと、人間の死とか、或いは
死後の世界とかというふうな問題が非常にマスコミ、
テレビなんかでも取り上げられておるように思います。
和尚さんが、購読している雑誌をご覧になったところ、
昭和63年の3月号の「大法輪」という古い、仏教の
一般雑誌だそうですがご存じの方も居られるかと思い
ますが、その雑誌の3月号の特集が「今老死をどう迎
えるか」というテーマだそうです。
それから平成3年10月号の同じく大法輪。
これのテーマが、「死の準備と死後の世界」
こういう特集になっているそうです。
それから最近(このお話しをお聞きした頃)の出た大
法輪のテーマが「輪廻転生とは何か」こういう題にな
っていたそうです。
それからもうひとつの雑誌に「仏教」という雑誌があ
って、それの平成元年の1月号に「死を見つめる」と
いう特集ですね。
それから今年(お話しをお聞きした頃)の今月発行さ
れている2月号に「死」の特集。
和尚さんは仏教者ですから本屋へ行って、仏教に関す
る本を見ているとそういう書物がたくさんあるそうで
す。
「死と生の間」とかね。「死と生の接点」とか。
或いは「脳死」。「尊厳死。」「或いは臨死体験。」
そういうふうな、多少名目は違いますが同じような本
がたくさん出てくると。
皆さんも本屋さんへ行かれてそういうのをお気付きに
なってるのではないかと思うのですけれども。
そういうふうに死という周辺の問題が、非常に関心が
高まっている。
或いは精神的なことの流行かもしれませんけどね。
しれませんけれども和尚さんは、仏教者の立場から非
常にこれはけっこうなことだと。
正しい仏教の説くべきね、皆が注目してるんですから
ね、継承してくれると思うんですね、そういう問題に
対して。
そういうふうに雑誌の特集なんかで意見を求められる
のは、主として仏教者。或いは仏教学者。僧侶。
他の宗教家もそうですけどね、そういう方々は当然、
医者もそうですが求められる。
そういうときにそういう仏教者、或いは仏教学者が解
く意見が正しければいいのですがね。
そういうところに求められる人は有名な人ですよね。
私たちが知らない人でも、知る人は知るという人であって、
その道ではやはり立派な方々なんですよね。
ですからそういう方々の意見ですから、影響が大きい。
正しい仏教が影響することは結構ですけれども、大変僭越
な言い方ですけれども、これはどうもこんなことでは困る
と、これだったら解かないほうがましだということが、本
を読んでたらそういうところが出てくると和尚さんはおっ
しゃる。
むしろそういう意見の方が多いと。
これは我が意を得たりと、和尚さんと同じ考えを持ってる
人があるそうです。
ところがそういう意見は少ないそうです。
そこでこの大法輪の「輪廻転生とはなにか」と、いうその
中から、これはどうも気にかかることがあるそうです。
正しいことはそれでいいのですよ。間違ったことを気を付
けなければいけませんね。
幸福よりも不幸を気をつけないといかん。
善よりも悪を気をつけないといかんと思うのです。
そういうことで、本の中からお二人の意見をご紹介しよう
と思いますが、本に名前を出してあるので文章の終わりに
名前を書かせて頂きます。
一、 最近は「輪廻転生」に関する本なども出版され
て、真剣にいろいろと議論している人がある。
また、死んだらゴミになるだけだとニヒルに考えて輪廻転
生を否定する人もある。
また、仏教の開祖釈尊は「無我」を説かれた。仏教の根本
思想は無我といえる。そうすると、我のないものにどうし
て輪廻するのか、何が輪廻するのか。こういう疑問を持た
れる人もあろう。
このようなことに疑問を持った人が紀元前二世紀後半にす
でにいた。西インドを支配していたギリシャ人の国王ミリ
ンダである。(ミリンダ王は仏教に帰依した王)
彼は仏教僧ナーガセーナ(那先比丘というのですが)にさ
まざまな疑問を提出している。
その中に「輪廻の主体」に関する質問も含まれている。
それを次に紹介しよう。
(ここからは田中さんという方の訳です)
ミリンダ王問う。
「尊者ナーガセーナよ。次の世に生まれかわるものは何な
のですか」
この名称。形態というのは、この田中さんという人独特の
訳ですね。
これじゃあ誰もが何がなんだか分からないだろうと和尚さ
んがおっしゃる。
次に四角で囲んだ部分がありますが、これはお経そのもの
を和訳したお経ですが、文章の中に「尊者那先、現在の名
色」と。この名色を、名称・形態と、田中さんは二つに分
けてるんですね。
この名色という言葉を和尚さんのお話しの中にも時々出て
きますが、なじみの薄い言葉ですね。
これを別の言い方をしますと、「五蘊」(ごうん)といい
ますね。
般若心経に、五蘊皆空と出てきますね。あの五蘊です。
この五蘊の蘊というのは、集合体。集まりというのが蘊と
いう意味になります。
だから蘊蓄(うんちく)という言葉がございますね。蘊蓄
を傾けてお話しをするとかね。
自分の得た知識を傾けて解くとか話すとか、蘊蓄といいま
すね。集めて貯えてある。そういう意味ですね。
だからこの五蘊というのは、五つの集まりという意味で、
これをちょっとお話ししますと、色受想行識の受想行識が
名なんです。それで名色。
この受想行識というのは、我々の心なんです。精神です。
怒ったり笑ったり、いろんなことを考える。
我々のこの意識作用。心ですね。
心と、色は身体ですね。だから我々は心と肉体で出来て
いるということですが、それぞれ細々と説明があるので
すが、ここでは五つの大まかな意識作用を代表させてい
るわけです。更に一つにしたら心ですね。
色というのは物質のことで、人間でいいましたら身体の
ことですね。
これを五蘊といいます。また別の言葉で名色といいます。
心というものは名前はあるけれども、実際はここへ心を
持ってきて見せるということは出来ませんね。
我々は心というものはあるということは名前として分か
っていますが、これが心だと人に示すことが出来ない。
田中さんはそれを名称といってるんですね。
こう説明すれば分からなくはないですね。
形態というのは、要するに身体のことなんですよ。
四角で囲んであるお経の方は、名色となってますね。
「尊者那先、現在の名色と未来の名色と」
田中さんの方は、<現在>の名称・形態が次の世に生ま
れかわるのですか、と。名称・形態となってあるわけで
す。
だから形態というのは色のことをいってるわけですね。
名称のことは、名色の名のことをいってるのです。
そういうことですね。
「名色」
ですが形態という訳はちょっとどうですかね。
名称も和尚さんが訳するのだったら、「心身」と訳したい
と。
これでかたが付くと。そうですよね、心と身体のことです
からね。
作品名:和尚さんの法話 『 輪廻転生 』 作家名:みわ