KYRIE Ⅲ ~儚く美しい聖なる時代~
第3章 降臨~Ingrid2
警部が帰った後、公爵夫人は暫し沈黙して窓の外を眺めていた。
その横顔は白く冴え冴えとして彼女の心中の苛烈な決断を暗示していたが、それに気付く人間は今の夫人の周囲にはいなかった。
やがて彼女は会議を終えたばかりの支店長のメリクを呼び出した。
メリクは欧州だけでなくアメリカ、アジア、中東に渡って事業を展開しているラーゲルレーヴの支店長の中では年配だがその手腕は鋭く明晰だった。母方の祖母は中東の出身で彼自身も十代後半まで砂漠に住んでいた。しかし今の彼の容姿に母方の面影はない。エンジニアの家系だった父方に似て、神経質そうな額と繊細な指からは想像し難い抜け目のない野心を持っていた彼は、大学を卒業すると同時にルイ・セドゥの運営していた企業に入り異例のスピードで出世して行った。
そして数年前公爵が結婚しラーゲルレーヴの重役となった後はその欧州の支店の一つを任されている。
公爵夫人のオフィスで、いくつかの案件についてやり取りを終え退室しようとした彼は夫人に呼び止められた。極めて個人的な話題であるかのような気安い口調だが、彼女が私的な事柄を話題にするなど今迄皆無だ。
支店長は内心眉をひそめて夫人を振り返った。
「ルイを殺したのは貴方ですね」
支店長はそつのない笑顔を夫人に向けたままだった。
「あの別邸に出入りできる人間は限られていますもの。そしてルイを殺す必要があると言えば貴方しかいない」
支店長の蒼白な額から汗が滲み出た。態勢を立て直そうとしたが叶わず、先程立ち上がったばかりの椅子に座り込んだ。
迂闊だった。まさかこの女がこれ程まで躊躇なく攻撃を仕掛けて来るとは。
「夫人・・・いえ会長。何故そのような戯言を仰るのです?私は数十年間公爵の部下であり友人だったのですよ。そうです、貴女がいらっしゃるずっと昔から」
「貴方がこの国に渡って来る以前からの愛人関係ですものね」
夫人はまるで天気の話でもするかの様にさらりと言ってのけた。
「メリク。もう茶番は止しましょう。いえ・・・サダルメリクと呼ぶべきかしら?王に幸運をもたらす星。公爵は貴方をそう呼んでいたのですね。
若い頃中東に赴任していた公爵は貴方と出会い秘密の恋人にしました。その頃の貴方は今よりもずっと美しい青年だったのでしょうね。そして公爵はずっと軽薄だった。貴方に密かにのめり込むあまり貴方と一族の援助を買って出てしまった。
あの人は死の直前までそういう軽はずみな所があったけれど、その時の行為は迂闊としか言いようがないわ。結果的にそれが後にテロリストとなる貴方の兄と、母体となるテログループの資金となってしまったのだから」
支店長は瀕死の様相で椅子に座り込んだまま夫人を眺め、やっと息を吐いた。
「誰から聞いた・・・・?そうか、弟王子か」
公爵夫人は薄く笑い肯定してみせた。
「あの国では同性愛は禁忌ですもの、貴方とルイの関係を知る者などそうはいなかったから昔の情報を引き出すのに苦労したわ。
貴方の一族は砂漠の暮らしを捨て切れず19世紀に入ってからは没落の一途を辿ったけど、元々は王家の縁者で、王族達に代々仕えてきた民だったそうね・・・」
支店長はまじまじと公爵夫人を見た。数年前、公爵と彼女の婚礼に出席した時から感じていた禍々しい予感が現実のものとなりつつあった。
この女は魔女だ、俺は最初からこいつが気に食わなかったんだ。彼は息を整えた。
「そうだ、俺はそんな母方の一族の系譜などには興味はなかったがね。だが俺の兄は違った。一度はこの国に渡ったが俺とはまるで違う道を選んだ、聖戦に傾倒して行ったんだ」
「それが、貴方にとってはまたとないチャンスとなった」
夫人の問いかけに支店長は自嘲気味に頷いた。最早逃げも隠れも出来ないと悟った彼は能弁になっていた。
「言っておくが最初に俺を地獄に引きずり込んだのはルイの方だよ。夫人、あんたは知らなかったかもしれないが、昔の彼にはそういう後ろ暗い一面があったんだ。
この国に渡りルイに再会した時、俺は迷わず彼に二者択一を迫ったよ・・・公爵家の致命的なスキャンダルを暴露されて身の破滅を招くか、俺との共存か。答えは直ぐに出たな。
その時からだよ、公爵と俺の公私共に離れがたい連帯は。公爵は俺を見捨てる訳には行かなかったし俺はルイの役にたった。お互いに腹に一物あったにせよ、夫人、あんたが来るまで俺達の関係は良好だったんだ」
「その関係が崩れたのは私のせいだと?」
「ああ・・・正確には、あんたとあの坊やの関係を俺がルイに言ってやったせいだな」
支店長は少し下卑た口調で呟く。彼は蝋人形の様に蒼白な顔を決然と上げ、夫人の反応を見た。
作品名:KYRIE Ⅲ ~儚く美しい聖なる時代~ 作家名:リンドウノミチヤ