KYRIE Ⅲ ~儚く美しい聖なる時代~
桐永天音は史緒音の死の一年後に他界した。癌が再発しあっけなく逝ったのだ。
彼が最後に娘と和解したのかを知る者はいない。
しかし、かつて統也が彼の娘を望み天音が承諾した、そのささやかな出来事は彼の娘に対する生涯唯一の善行として報われる事となったのだ。
天音を看取ったのは統也だった。彼は妻を失った衝撃からどうにか立ち上がり、遺された子供達を伴って強引に義父と同居した。
周囲が驚くほど二人の関係は良好だった。
「君を見出したのは全く僥倖だったよ」
死の数ヶ月前、天音は統也にそう告白して彼を苦笑させた。
ミューズに愛され続けた幸せな男が娘婿に対してある種の純粋と言ってもいい好意を持っていた事は疑いがない。
統也の方はというと、彼は本質的に極めて明朗な男だったにもかかわらず、著名な元ピアニストであり妻がその人生をかけて憎み愛していた父親に対し幾分複雑な感情を抱いていた様だ。
天音の死後、統也はかつて妻の企業家としての責務だった事業に本格的に携わる事になった。それは予想だにしない重圧に違いなかったが統也は黙々と自らの役割を果たした。
故国には永く帰らずようやくその機会があったのは妻の死から随分年月を経た後だった。十代の頃の天使のごとき少女との出会いは、結果として彼に家族や母国や親友との半永久的な別離を強いる事となった。
統也の支えとなったのは史緒音が遺した子供達だった。
彼の娘は母親に良く似た天使の様な容姿と光り輝く快活さで父親を愛したが、後に優れた音楽家となる息子はその繊細さ故か何処か父とは反りが合わなかった。
それはまるで亡き妻が二つに分かたれたがごとき彼等の宿命だった。息子の静かな反目は父親の晩年まで続く事になったが、統也はかつて妻に対してそうした様にからりと笑って受けとめたのだった。
十数年後、統也は成人した子供達に企業の全てを委ね南米に渡った。
そこは彼の曽祖父がかつて新天地を求めて渡り、全てを得た後全てを失った地でもあった。地上で何番目かに数えられる程治安の悪い土地だったが、統也はそこで飲食業を営みつつ孤児達の為の学校運営に関わる事業を始めた。そして南米での暮らしが軌道に乗った頃、彼は事業を友人に任せると、古い型のバイクを疾走させ気儘な放浪の旅に出たのだった。
作品名:KYRIE Ⅲ ~儚く美しい聖なる時代~ 作家名:リンドウノミチヤ