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和尚さんの法話 『仏説無常経』

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「大地及び日月も 時来たれば皆尽に帰す」
これは三千年前の話しでしょ。
其の時に、大地もなくなる、日月もなくなると、そうい
う時代でもそういうことを想像したであろうか、お釈迦
様だからこう説いてるわけですね。
そのお釈迦様が、大地もなくなると、つまり地球ですね。
地球もなくなるし、日月もなくなるんだと、そういう時
代がくるんだと。
時が来たれば皆尽に帰してしまうんだと説いてるわけで
す。

「未だ曽て一事として 無常に呑まれざるは有らず 上は
非想処に至り 下は転輪王に至る」
この非想処となっていますが、非想非非想天という天上界
ですね。三界の一番てっぺんです。
欲界、色界、無色界と、これを三界といって迷いの世界で
すね。
我々は今、欲界に住んでるわけです。
この中に、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間とあって、天上
界が六つあります。
この世もあの世もひっくるめて欲界というんです。
そして色界、無色界はもう皆天上界なんです。
ですから天上界のほうが多いんですよね。
この天上界は、二十八あります。
欲界に六つ、色界に十八、無色界に四つ全部で二十八天あ
るんです。
三界二十八天の一番上の天に、非想非非想天という天上界
があるんです。
そして我々が修行をして、非想非非想定という禅定をこの
世で獲得できた人は、死んだら非想非非想天に生まれるこ
とが出来る。
禅の本来の有り方はそうでなければならないですね。

だから迷いの世界の一番天辺ですね、非想非非想天。
それを非想と略してるわけです。
非想処の処と書いてる処というのは天上のことです。
下は転輪王に至るという転輪王というのは、人間界へ生ま
れてくるんのではありますけれども、あの世にもあるので
す。
若しこの転輪王という人が人間としてこの世へ生まれてく
るとしたら、もの凄く徳を持った人なんです。
まだ凡夫なんですけれども、菩薩の位になるような人です
がまだ三界にいるので輪廻してくるんですね。
その下に我々があるわけです。位としては、ずっと下。
凡夫の位の一番上にあるのが転輪王。
上は非想非非想天の人間であっても、たとえ転輪王であっ
ても輪廻してくるということです。

「七宝とこしなえに身に随い 千子常に囲繞せんも」
転輪王というのは、七つの宝を持ってるというのです。
七種類の宝に相応する徳を持ってる。
そして眷属ももの凄く多い。
そして子供も千人居るというんです。
そしてその千人の子供にいつも取り巻かれて幸せな境遇の
人なんです、転輪王というのは。

「如し夫れ寿命尽くれば 須臾も暫くも停らず」
そういう人であっても、三界六道の中の存在だから無常は
遁れていない。
解脱出来ていないから、必ず死ななきゃならない。
いつまでもそこに居たいと思っても居られない、いつか遅
かれ早かれ死ななきゃならないということです。

「還た死海の中に漂いて 縁に従いて衆苦を受けなん」
死海というのは、生死、輪廻の例えですね。海に例えてる
わけです。
生死の海に漂って、そしてそれぞれ縁に従って、それぞれ
の苦を受ける。
まずは、生まれたら死ななきゃならん。
その間にはいろんな苦しみがある。
愛別離苦だとか、怨憎会苦だとか、愛し合いながら別れな
ければならないという苦しみ。
憎しみあいながら別れられない。
求めながら得られない。
四苦八苦といういろんな苦しみがあるんですよね。
一番大きいのが生老病死という苦しみですね。

「三界の中に循環すること 猶し汲井輪の如し」
三界の中を上ったり下がったり上がったり下がったりと輪
廻して、ちょうど井戸の釣瓶の滑車のようなものですね。
下に降りた桶に水が入ると上って、また片方が降りて水を
汲むと。
それと同じようにくるくると輪廻して回るということです。

「亦蚕のまゆを作るが如し 糸吐きて還って自からを纏う」
蚕というのは、自分の住処を自分で造りますわね。
繭の中へ入ってしまいますが、自分で糸を吐いて自分で繭
の中へ入るんですね。
我々も三界というのは、自分が造るんですよ。
自分の欲に相応した三界を造るんですからね。
自分の欲が無かったらそこへは行かないんですから。
欲界、色界、無色界というのはこれは煩悩の差なんですね。
だから欲界に住んでいる者は、欲界に相応しい繭を作るん
です。
色界の人は色界に相応しい繭。
無色界の人は自分に相応しい煩悩の繭を作るというような
ものです。それを例えたんですね。
煩悩が無かったら三界に居ないんだから、自分の煩悩に相
応した世界に産まれて行くんですから。
だからあたかも蚕が繭を作るようなものなんだというので
す。

「無上の諸世尊 独覚声聞衆も」
諸の如来様。
独覚というのは、独りで悟る。
仏様の無い時代に生まれてきて悟るんですが、前世でそれ
だけの修行を積んだ人ですね、それを独覚といいます。
無師独悟といいまして、師匠に遭わずして自分で悟るんで
すね。
または縁覚ともいいますね。
つまり、自分が一所懸命に修行をしていて、そして或るも
のをつかんで自分で悟る。縁によって悟る。
だから縁覚というし、一人で悟るから独覚ともいいます。
同じことですね。

如来様をはじめ、縁覚、それから声聞、声聞というのは舎
利弗や目連のように仏様の時代に生まれ合わせて、そして
仏様の教えを耳で聞いて悟っていく、それを声聞といいま
す。
舎利弗や目連の他、千二百五十人の阿羅漢、それからそれ
以外の大勢の弟子が居りましたね、そういう人達は皆声聞
なんです。
然し、声聞といいましたら代表的に阿羅漢のことをいいま
すけどね。
声を聞く人は皆声聞なんです。
が、同じように声を聞いても悟る人と悟れない人がある。
ま、普通、声聞というと普通は阿羅漢ですね、悟りという
のを重点を置いたらそうなりますね。
そういう人達でも、肉体を持ってこの世へ生まれたら必ず
死ぬ。
肉体は滅びなきゃならん死ぬんだということです。
現にお釈迦様も亡くなったし、千二百五十人の阿羅漢も死
にましたしね、そこのところを言ってるわけです。

「尚無上身を捨つ 何に況や凡夫に於ておや」
仏様でも、況や我々も凡夫に生まれて、いつまでも死なな
いということはあるわけはない。

「父母及び妻子 兄弟並びに眷属に 目に生死の隔つるを
見ては 如何が愁嘆せざらん」
自分が死ぬときに、自分は親よりも先に死んでるという場
合もあり得ると、父母は涙を流して嘆きますね。
或いは子供や兄弟も嘆、親戚の者も枕辺へ来て皆嘆きます。
嘆けれども、結局それがどうなるというわけでもない。
嘆かれて、我々死んで行く者の足しになるわけでもない。

「常に諸の欲境を求め 善き事を行わず」
我々死んでいく者が、今までのことを考えてみたら欲な
ことばっかりを考えて、欲なことばかりを求めてきた。
欲というのは度を超えると、業ということに変わってき
ますね。
今テレビでもいろいろと報道されていますが、ああいう
ことですね。