和尚さんの法話 『念仏減罪』
交通事故に遇うやら、どんな死に方をするか分かりません
ね、病気ばかりじゃない。それはそのとうりですね。
「いかなる不思議のことにも遇い」不思議というのは、災
難のことですね。
「また病脳、苦癒せしめて正念に住せず終わらんに念仏申
すことかたし」
またどんな奇病に遇って、苦しんで、死ぬときになるとい
ろんなことを、凡夫ですから思いだす。
苦しいことも思いだす、死んだらどうなるということも思
いだす、いろんな妄念が起こって来る。
そんなことで正念を失ってしまう。
かもわかりませんね、我々は皆。
正念とは健康な心理状態ですから。
今から死んでいくんだ、眠ってはならんと、そういうちゃ
んとした判断の出来る状態が正念ですね。
このお話しを読まれている皆さんも正念だし、書いている
私も正念なんですよ。
顛倒、錯乱じゃないんです。
ところがその死ぬという時になってくると何が起こって来
るか分からない。
呆けるということもありますしね。呆けなくても顛倒、錯
乱するということもある。
テレビを見てると昔の写真が分からないというのがありま
した。
奥さんが呆けてるんですね、それで思い出すだろうと思う
て昔の写真を見せるんですが、その奥さんの若い時の写真
を見せて誰か分かるかと聞くと、自分の写真が分からんと
いうのです。
自分が分からんというのですから、これは惨めですよね。
これはもう正念じゃない。
だから念仏を称えなさいと言ったって、それは分からない
ですね。
そんな死ぬ方をするかも分からんと。
「其の間、その罪をばいかがして滅すべきや。」
今まで念仏を称えてきたけれども、ところが今死ぬ間際
になってそういうことになってきては正念を失ってしま
う。すると念仏は称えられない。
するとその罪はどうなるんだというのです。
それは一理あるんですね。
だから念仏が出ないのだったら罪は、念仏滅罪ですから
罪は消えない。残った罪はどうなるのかと。
「罪きえざれば往生は叶うべからざるか。」ここが和尚
さんがおっしゃる疑問なんです。
罪が消えなければ往生は叶わないと和尚さんがおっしゃ
います。
先ほどの滅罪和讃には、名号称える者の罪は消えたとお
っしゃってるんですよ。
ところがここでは、罪消えざれば往生叶うべからざるか。
というのは、和尚さんは叶わないと思うと。
そうですよね、罪が消えなければ往生は出来ないのだか
ら。
だからこれは親鸞のお言葉というよりも、惟円の思想じ
ゃないかと思うそうです。
歎異鈔を書いた惟円ですね。
何れにしましても、和尚さんはこれはちょっと疑問だと
おっしゃいます。
大変僭越ですけれども、私も先ほどのお経とあわせてこ
れを読みますと疑問に思います。
だいたい阿弥陀様が、この人間は信心決定しているとい
うことをお見抜きになったら、決して顛倒、錯乱、失念
はさせないんです。
自分で正念になろうというのとは違いますから、阿弥陀
様が正念にして下さるのですよ。
その条件は、信心です。
だから信心さえ決定してたら顛倒、錯乱、失念しないし
呆けないし、この人間は長生したらひょっとしたら呆け
るかも分からんというような人だったら、その前に呆け
る前に阿弥陀様がお迎えして下さるのですよ。
如来様には十力があるんですから見抜いたとしてね。
呆けたらお念仏は出ないから、ちょっと早いけど今、引
き取ってやろうかと。
「罪を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念を祈る
人の本意なれば他力の信心なきにて候なり。」
臨終正念を祈るのは他力の信心が無いから、祈らんなら
んのだと。
「占察善悪業報経」
こういうのですね。救われるに決まってあるんだと。
真宗はそう言いますね。
ちょっとその辺が疑問ですね。
罪が消えなければ往生は叶わないです。
その罪を消すためにお念仏を称えさせて頂くのですから。
そして八十億劫の罪が消えるんです。
そういうことで、我々は罪の塊ですから、兎に角お念仏を
称えさせて頂けば、念々に八十億劫生死の罪が消えるので
すから。
どうぞ皆さん、お念仏をお称え下さいますように。
次に、占察善悪業報経
「若し衆生ありて三業の善相を得る時、光明其の屋に遍満
し殊時異好の香気を聞きて身意快然たり。或いは夢に仏、
菩薩来たりて手づから其の頭を摩し、歎じて曰く、善哉、
汝今清浄なるが故に来たりて汝を証す。」
― 占察善悪業報経 ―
この三業というのは、身・口・意の三業です。(しん・く
・い)
身体で以って、善悪の行いをしますね、我々は。
人を助けたり、人を殺したり。人に布施したり、人の物を
盗ったり。というのはだいたい身体で行う。
口で言うのが、悪口雑言であるとか、相手に対して労りの
言葉でいうとか、そういう口で言う善悪の行い。
意は心ですね。貪・瞋・痴。
これは悪いほうですね。
そしてそれの善いほうですね。
それを三業と。三業の善相とは、その行いが善かったとい
うわけですこの人は。世の中にはそういう人もあるわけで
す。
身の行いも善い、口の行いも善い、心の行いも善い。
そういう人の死んでいくときは見事な死に方をする。
往生際がいいというわけです。
往生際が悪いとか、往生際がいいと言いますが、この人は
いいんですね。
言葉というのは、だんだん変わってきますけども、テレビ
なんかで時代劇でおまえは往生際が悪いじゃないかと、い
うようなことを言ってるのは、諦めが悪いと、おまえはも
うこれでだめんだから、そんなことをごちゃごちゃ言わん
と諦めよ、往生際が悪い。
というようなことをいっておりますが、往生際というのは、
往生するとき、本当に極楽往生するときは見事な死に方を
するはずなんですよ。
七転八倒しながら極楽往生するなんてことは、そんなこと
は絶対にあり得ない。
それはもう見事な、傍で見ていてもなるほどと思うような
死に様をするはずなんです。本当の極楽往生する場合はね。
そういう場合、三業の善相。そういうような人は死んでい
くときは、
「光明其の屋に遍満し殊時異好の香気を聞きて身意快然た
り。」
その部屋が光り輝いている。
これはその人だけにしか分からんでしょうね。
或いはその側に本当に悟った人、菩薩であるとかという人
には勿論見えますけれども、我々凡夫が傍に居って、枕辺
に居ってもそれは分からない。
その死んでいく人に近いような境地の人には分かるかもし
れませんが。
そして香りもいい。
お線香もなにも焚いてないんだけれども、いい香りがする。
そういう瞬間は皆さんも経験があるんじゃないですか。
お線香も何も焚いてないんだけれども、ふっといい香りが
する。
それはその人の心境がだんだん高まっているはずなんです。
それは向こうさんがそういう香りをさせて下さるのです。
向こうさんとは仏様のこと。
「身意快然たり」身も心も安らかになる。
「或いは夢に仏」そういう人が、死んでいくまで余裕があ
れば、仏様の夢を見る。或いは菩薩様が来る夢を見る。
「菩薩来たりて手づから其の頭を摩し」そして死んでいく
人の頭を撫でる。
仏様とか菩薩様に頭を撫でて貰ったら、それはもうしめた
ものです。
作品名:和尚さんの法話 『念仏減罪』 作家名:みわ