和尚さんの法話 『念仏減罪』
「歎じて曰く」褒め称える。
「善哉、汝今清浄なるが故に来たりて汝を証す」
身も心も清らかだ。身苦意の三業が皆清らかで、そのため
お前のところに来た。お前はいい所へ生まれるぞ、という
ことを証明に来てくれる。
それが夢うつつのときにくるとか、ありありと、人には見
えないけれども自分だけにありありとその姿を見るとかね。
夢であってもいいんです。
それは夢ではないんですから。
だいたい夢というのは霊界と自分の心との波長の合う瞬間
ですからね。
だから人間同士でも亡くなった人を夢に見てたらそれは遇
ってるんです、夢じゃない。
これは懺悔ということではないんですが、罪の無い人の死
に様という意味合いでね。
だから懺悔したらこういう状態になると。たとえ罪があっ
てもね。
だから地獄の猛火が一時に消して清涼の風となるというの
でしょ。
「大乗本生心地観経」
「若し能く如法に懺悔せば所有の煩悩悉く除く。猶劫火の
世間を壊するに須弥並に巨海を焼尽するが如し。懺悔は能
く煩悩の薪を焼き、懺悔は能く天路に往生し、懺悔は能く
四禅の楽を得、懺悔は能く宝摩尼珠を雨ふらし、懺悔は能
く金剛寿を延ばし、懺悔は能く常楽の宮に入り、懺悔は能
く三界の獄を出で、懺悔は能く苦堤の華を開き、懺悔は能
く仏の大円鏡を見、懺悔は能く宝所に至る。」
― 大乗本生心地観経 ―
「若し能く如法に懺悔せば所有の煩悩悉く除く」
如法というのは、教えのとおり、法のとおり、お経に書い
てあるとおり。
煩悩悉く除くというのは、罪が除けるということは、煩悩
が除かれるということですから。
「猶劫火の世間を壊するに須弥並に巨海を焼尽するが如し
。」
劫火というのは、お釈迦様の予言では、或る時期に宇宙に
大火事が起こるというのです。
そしてこの宇宙が全部消えてしまうという。そしてまた新
たに宇宙が出来てくるという。
その火というものは、もう何もかも全部燃え尽くしてしま
うというのです。
そういう時が来る。そ
してまた新たに地球が出来て、また人類が発生してくる。
これを永遠に、無始以来繰り返してるんですね。
そういう劫火が一切のものを焼き尽くしてしまうように、
懺悔したら、一切の煩悩が全部焼き尽くされていく、滅
っせられていく。
それだけ懺悔ということは大事なんだということです。
「懺悔は能く煩悩の薪を焼き、懺悔は能く天路に往生し」
柴を燃やして灰にしてしまう。或いはその懺悔によって、
天路というのは天上界へ生まれ変わる。
「懺悔は能く四禅の楽を得、」
そういう禅定の境涯を獲得することが出来る。
「懺悔は能く宝摩尼珠を雨ふらし、」
功徳をいっぱい頂くという例えですね。
「懺悔は能く金剛寿を延ばし、」
命を延ばして下さる。
「懺悔は能く常楽の宮に入り、」
常楽というのは、例えば具体的にいうならば極楽。
そういう世界に生まれることが出来る。
「懺悔は能く三界の獄を出で、」
三界の、つまり解脱ですね。
「懺悔は能く苦堤の華を開き、」
菩提の華とは、悟りの華。
「懺悔は能く仏の大円鏡を見、」
仏の大円鏡というのは、大円鏡地というそういう境地で
す。仏様の境地ですね。
そういう仏様の境地というのを覗かせて頂ける。
そして何れは自分も仏様に成っていくということです。
その懺悔懺悔によっていろんな様々な多くの功徳がある。
「懺悔は能く宝所に至る。」
兎に角、善い処へ生まれる。
和尚さんが、或る時に葬式に行ったときのお話しですが、
そしてお話しをしてましたところ、或る人が、或る時に
和尚さんに安産のご祈祷をしてもらいにいったそうです。
其の時和尚さんが、貴方の家には水子がありますやろ、
と言ったそうです。
家の姑でございます。
その姑さんは、足が悪いのと違いますか。
和尚さんは記憶にないけど向こうさんがそうおっしゃる
んですね。
その水子のことは、あっちへこっちへ何処へ拝みに行っ
たら時々言われます。というのですね。
するとお姑さんは、ありませんありませんというのです
ね。あるんだけどないと。
それは昔、堕胎罪というのがあった頃ですね。大正から
昭和の初め頃でしょうか。
その時代にふとしたことで、その赤ちゃんを秘めて秘め
て秘めて中絶なさったらしいのです。
ですから産婆さんとその関係者だけしか知らないわけで
す。
人に知れたら監獄ですからね。
だからそういうことがありましたから、水子と言われる
と反射的にありませんと、昔から隠し通してきてますか
ら、反射的にありませんと口から出る。
今はもうそんなことはないんだから隠すことも要らない
わけです。
そんなことで隠していると足も治りませんよ、と和尚さ
んがいった。
そして懺悔しなさいと。
懺悔というと、ほんとういうと人に聞いてもらうのが懺
悔なんですね。
私はこんなことをしましたと。
みんなに聞いてもらう。
洗いざらい垢を全部出してしまう。
それが本当の懺悔。
ところが自分の罪を人に聞いてもらうということはちょ
っと出来ませんね。
自慢することは言えますがね。
恥ずかしいことはちょっと言えない。
だから人に、というのは難しいんですよね。
だからそれは出来ませんと。お姑さんがいう。
だから家の仏壇の如来様にしなさいと、先祖じゃありま
せんよ、如来様に悪うございました。
悪うございましたというて謝りなさい。
そういう懺悔をしなさい。
そしたら足も治るんと違いますかと。
こう和尚さんが言うたらしいのです。
それでその人が帰って、お母さんにそう言った。
足が治るというのならというので、それから謝り通した
というのです。
如来様の前で、悪うございました。悪うございましたと。
そして足も治ったそうです。
足は治ったけれども、死ぬまで続けていたというのです。
そして結構な往生を致しましたと。
仏間に小さい子供が寝ているそうで、その子が二つにな
り、三つになり物心が付いて、目を開けるとお婆さんが
頭のところで仏壇に向かって悪うございました。悪うご
ざいましたと拝んでいるから、お婆さん、何を悪いこと
したんだと子供が言うほど長い間、悪かった悪かったと
称えてたというのです。
そして結構な往生をさせて頂きましたと。
そういうことがあったそうです。
だから懺悔ということは、お経に説いてあるとおりだと
いうことです。
了
作品名:和尚さんの法話 『念仏減罪』 作家名:みわ