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和尚さんの法話 『念仏減罪』

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の下。中の上、中の中、中の下。下の上、下の中、下の
下。これを九品といいます。
九品往生といいますね。だから極楽へ往生するのに九の
段階があるんですね。
其の人その人の行いによって違いがあるわけです。

次も同じことで。

「或は衆生有りて不善の業たる五逆、十悪を作りて諸の
不善を具す。此の如き愚人、悪業を以ての故に応さに悪
道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮りなからん
。此の如き愚人、命終わる時に臨んで善知識の種々に安
慰して為に妙法を説き、教えて仏を念ぜしむるに遇わん
。此の人、苦に逼められて念仏するにいとま有らず。善
友告げて言く、汝、若し念ずること能わずんば、応に無
量寿仏と称すべし。是の如く至心に声をして絶えざらし
め、十念具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称す
るが故に、念々の中に於いて八十億劫生死の罪を除く。」

― 観無量寿経 ―


五逆というのは、父を殺す。母を殺す。阿羅漢を殺す。
仏様に怪我をさせる。仏教教団を破壊する。これを五逆
といいます。
十悪というのは、殺生。偸盗。邪淫(不倫ですね)。妄
語(嘘をつく)。悪口。両舌。綺語(へつらいの言葉。
自分の利益のために人におべっかを言う)。それから貪
・瞋・痴。
これを悪く行ったら、十悪。
善く行ったら十善です。

「此の如き愚人、悪業を以ての故に応さに悪道に堕し、
多劫を経歴して苦を受くること窮りなからん。」
多劫というのですからどれくらいか分かりませんね。一
劫でないことは間違いない。
そのような愚人にお説教をして、この場合の仏を念じと
いうのは、仏様の姿を思い浮かべなさいといって教える
んですね。
心の中に仏様のお姿を思い浮かべるだけで、それで罪が
消えるんです。

「此の人、苦に逼められて念仏するにいとま有らず」
ところが病気で苦しくて苦しくてしようがないので、そ
の方へ心が散ってしまって、とても心を澄まして仏様の
姿を思い浮かべることが出来ない。
ここでの念仏はそういう意味なんです。

「善友告げて言く、汝、若し念ずること能わずんば、応
に無量寿仏と称すべし」
仏様の姿を思い浮かべることが出来ないなら、せめて無
量寿仏と称えなさいというのです。

無量寿というのは阿弥陀様のことですね。南無阿弥陀仏
と称えなさいというのと一緒です。

「是の如く至心に声をして絶えざらしめ、十念具足して
南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、念々の
中に於いて八十億劫生死の罪を除く。」
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏と十念称えなさいと。
これははっきりとした「念仏滅罪」の証文ですよね。

次に般舟讃という書物があるのですが、この中に。

「専ら弥陀の号を念ずるには如かじ。念々の称号は常の
懺悔なり。」

― 般舟讃 ―

弥陀の号というのはお名前ですね。
仏道の修行はいろいろあるけれども、念仏の称号はその
まま懺悔になってるということです。
懺悔になってるから、滅罪とこうなってるわけです。

次は、
「但し、事理の懺悔に堪えざる者は一心に弥陀仏を念ぜ
よ。一念の間に能く八十億劫の生死の罪を滅す。何に況
や念々をや。是の故に常に弥陀を念ずる者は恒に懺悔を
修する者なり。」

― 往生講式 ―

「事理の懺悔に堪えざる者は一心に弥陀仏を念ぜよ」
というのは、先ほどのです。理の懺悔と、ありましたね。
禅定によって実相を観察する。是も出来ない。
事の懺悔。お百度踏むのも難しい、礼拝するのも大変だ、
そういう決めごとをすることが出来ない。そういう者は
一心に阿弥陀様を念じなさいと。

「一念の間に能く八十億劫の生死の罪を滅す。何に況や
念々をや。」
一遍称えるだけで八十億劫。また一遍称えたら八十億劫。
だから念々をやと。



「歎異鈔」

次は、滅罪和讃です。これはお経をそのまま詩に作ったも
のです。
「事理の懺悔を修せねども  弥陀の名号唱うれば
 一念須臾のあいだにも   無量生死の罪きえぬ
 念々称名常懺悔      頼みても尚頼みあり
 弥陀還念したまいて    とどまる罪障ひとつなし」


「事理の懺悔を修せねども」これは先ほどの事の懺悔、理
の懺悔ですね。それが出来ない。
「念々称名常懺悔」念々の称名はそのまま懺悔になってる
というのですね。
「頼みても尚頼みあり」阿弥陀様という方は、お念仏によ
って罪を滅して、そして極楽往生させて頂ける頼みても頼
みある仏様である。頼んでも頼んでも頼みきれない。

「弥陀還念したまいて とどまる罪障ひとつなし」
阿弥陀様が私たちに慈悲の手を差し伸べて下さって、その
ことによって結局私たちの罪は一つとして残らないという
のです。全て消して下さる。
お念仏を称えることによって罪は滅するんだということで
す。
滅することによって、極楽往生させて頂ける。こういうこ
とです。
ですから仏教は、罪を滅することを教える宗教だといって
も間違いではない。
罪を滅することによって、如何にして苦から逃れるか。
罪は私たちを苦に導くものですから。


次にお話しするのは、和尚さんが疑問に思ったことをご紹
介します。
「念仏もうさんごとに罪を亡ぼさんと信ぜんは、すでに吾
れと罪を消して往生せんと勵むにてこそ候なれ。若ししか
らば一生の間思いと思うことみな生死のきづなに非さるこ
となければ、命つきんまで念仏退転せずして往生すべし。
但し、業報限り有ることなれば、いかなる不思議のことに
も遇い、また病脳、苦癒せしめて正念に住せず終わらんに
念仏申すことかたし。其の間、その罪をばいかがして滅す
べきや。罪きえざれば往生は叶うべからざるか。―――罪
を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念を祈る人の本
意なれば他力の信心なきにて候なり。」

― 歎異鈔 ―


「念仏もうさんごとに罪を亡ぼさんと信ぜんは、すでに吾
れと罪を消して往生せんと勵むにてこそ候なれ。」
罪を滅しよう、罪を滅しよう、罪を滅しようと、自力にな
ってくるというのですね。

「若ししからば一生の間思いと思うことみな生死のきづな
に非さることなければ、」
私たちが一生の間にいろんなことを思って、そのことは皆
罪だと。
人間というのは罪の塊なんだから。
それは昨日や今日と違う。
物心が付いて今の今までやったこと思うたことは皆、罪な
んだと。それはまあそうですね。
だからそんな自分だから、「命つきんまで念仏退転せずし
て往生すべし」
これはもう死ぬまで念仏を、退転というのは、油断して戻
る、称えない時が出るということのないようにして、絶え
ず念仏を称えないといかんのではないかというのです。
罪が深いのだから、ちょっとそっとの罪じゃないんだから
我々は。
だからその罪を消すためには、死ぬまでもう間断なく念仏
を称えなければ罪は消えないだろうというのです。
そしてそこではじめて往生が出来るのだろうと。

「但し、業報限り有ることなれば」
だからどんな死に方を
しなければならないかわからないと、我々は。
それはもう間違いがない。
どんな死に方をするか分からないですね。