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和尚さんの法話 『念仏減罪』

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分かってますからね、大目に見てくれるということがある
けど、この六斉日だけでも殺生をしてはならんということ
です。

「深く因果を信じ一実道を信じて仏の不滅を知るを第五の
懺悔と名づくるなり。」

― 観普賢菩薩行法経 ―


仏様というのは永遠に滅しないからなんだと。
平たく言えば霊魂不滅ですね。
仏様というのは、お釈迦様が亡くなってそれでお終いとい
うものではない、ちゃんとあの世にいらっしゃるんだと。
そういうことを信じるということ。
これを第五の懺悔と名づくと。

この文章だけをみますと、ちっとも懺悔らしくはないんだ
けれども、それがそのまま懺悔になっていくから仏法的に、
善いことをすれば皆それが懺悔になっているということで
す。


次は観無量寿経の一部分をご紹介します。

「是の如罪人、悪業を以ての故に応さに地獄に堕すべし。
命終わらんと欲する時、地獄の衆火一時に俱に至る。
善知識、大慈悲を以て、為に阿弥陀仏の十力威徳を説き、
広く彼の仏の光明神力を説き、亦、戒定、慧、解脱、解脱
知見を讃するに遇わん。此の人聞き已りて八十億劫の生死
の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風と為り、諸の天
華を吹く。花の上に皆仏、化菩薩有りて、此の人を迎接し
給う。」

― 観無量寿経 ―


「是の如罪人、悪業を以ての故に応さに地獄に堕すべし」
これは観経の一部分ですので、この前に行いを説いてある
わけです。
悪行を行ったんだから当然そのまま行けば地獄に落ちるに
決まってるんですね。

「命終わらんと欲する時、地獄の衆火一時に俱に至る。」
地獄の火が迎えに来る。何遍かお話しをしてますが、平清
盛のようにね、地獄の火が迎えに来るんですね。



「観無量寿経」

物語だと思ってる人もいるでしょうけど、これは本当なん
ですよ。
ほんとうに地獄に落ちるような人には地獄から火が迎えに
くるのが見えてるんです。
極楽へ行く人には、極楽から迎えにくる姿が見えるし。
これは信じなければいけませんね。
信じたら、我々のこれからの行いが変わってこざるを得な
いね。
信じかたでも浅い深いがありますけが、浅い信じかたより
深い信じかたのほうがいっそう行動を引き締めていけます
から。
兎に角、お経に説かれていることは信じなければいけませ
んね。と思います。

「善知識、大慈悲を以て、為に阿弥陀仏の十力威徳を説き」
阿弥陀様の、阿弥陀様だけじゃない、仏様の十力、十の他
の菩薩様方の持っていないといいますか、仏様だけが備え
てある十の、他にもあるんですが、代表的に十の力がある。
阿弥陀様にはこういう徳がある、こういう徳があると。
ここでは阿弥陀様を信仰させるひとつの部分ですが。
十力というのは、仏様というお方は、何をしたらいいのか、
何をしたら悪いのかと、ものの道理ですね。
どういうことをすればいいのか悪いのか、道理、非道理が
きちっと分かる。絶対に間違わない。
道理、非道理が誤りなく見極める能力がお持ちである。
それが一つ。

それから、業ですね。罪ですね。
善業もそうですが、その善悪の業によって報いですね、異
熟因異熟果といって善悪の業には必ずその報いがある。
行いは善悪であるけれども、報いは苦楽ですよね。
悪因悪果善因善果と申しますが、本当は、善因楽果悪因悪
苦。善は楽に変わり、悪は苦に変わる。
それを専門的な言葉で、異熟といいます。

善悪という性質と、苦楽という性質とはまるで違いますね。
これが異なって熟す。これを唯識学では異熟果といいます
ね。善が楽になるのを異熟果。善は異熟因。異熟因異熟果。
悪もそうです。
その善悪の業の異熟が、この行いはどういう報いになるか、
こういう行いはどういう報いになるかと、それを最大洩ら
さず、どんな些細なことでもその報いはどうなっていくか、
そういうことをちゃんとお見通しになる能力をお持ちであ
ると。

それはこの世での行いがこの世で、または次の世で、ま
た次の次の世と、何百年、何千年、何生、何百生という
向こうでもこの報いはこうなっていくと、ちゃんとお見
通しになる。そういう能力です。
ここで行った業が将来どういう報いを以て廻って来るか
ということをちゃんとご存じだというそういう能力。
それが二つ目です。

次は禅定ですが、その禅定がどんな禅定でも如来様は、
禅定にも段階があるんですからね、大雑把に分ければ、
四禅八定といって八つあって、それから三界を出る滅尽
定というのがあってというように段階がありますけれど
も、無限の段階があるんですね。
大つかみにすればそうだけど、その間にも無限の差があ
るわけです。
そういう禅定を全てご存じだというのです。
そういうお力がある。

それから衆生の、この人間はどういう人間だと、是の人
間はどういう人間だと、どの衆生もちゃんと見極める。
どの程度の人間だというのですね、例えばランクを付け
れば差別になるけど差は付くでしょうね。
それに応じたところへ生まれていくんですからね。
この世のランクによって、自分で用意をしなかったらそ
のままあの世のランクへはまり込んでいくわけですよ。

例えば地獄へ落ちるような行いをしていた人間は、やっ
ぱり地獄へ行くということです。
地獄でも上中下とあるんだけど、この人間は上の地獄だ、
この人間は中の地獄だ、下の地獄だと。
或は天上界へ行くような人間は、この人間だったら上の
天上界、この人間は中の天上界と。こういうことはお経
をいろいろ読んでいましたら、私は後生は何処へ生まれ
るでしょうかとお釈迦様に聞きに行ってるんですね、す
るとお釈迦様は、おまえは何処どこへ生まれると。
そういって怖れる人もあれば、喜ぶ人もある。
そういうお経もあるのです。
そういうお知恵を持っていらっしゃる。
どんな人格の人間でも皆、見通しであると。
そういうことを見通すお力ですね。

それから人格と同じようなことですけど、この人間はい
ったいなにを望んでいるのか。
どういうことをしようと思ってるのか。
他心通といって、人の心を見抜くというようなところへ
くるかもしれませんがね。
兎に角、我々の心の底まで見通す。
今の先のを紹介したのをもうちょっと細分化したもので
しょうね。
何を望んでどうしようと思ってるのか。
そういうことを見通すお力ですね。

それから、これもまた同じようなものですが、衆生の今
生。
兎に角、我々のことを何でも知ってるということでしょ
うね。
和尚さんも、字引をひいたとき、このことと先のことの
区別の境目はいったいどこにあるのかと思ったそうです。
この字引を書いた人もまたよく区別が分からなかったん
じゃないのかと。
それくらい似たような内容だということでしょうね。

それから業によってその人間はいったい何処へ行くのか。
そういうことをお見通すになると。

それからお経の中によくありますが、我過去世に於いて
各覚しかじか、お釈迦様は過去世に於いてこういうこと
があったというお話しがありますね。