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和尚さんの法話 『念仏減罪』

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もう絶対なんですから。
観察してというのは、我々の心というのは本当の姿は空
なんだということを、観察する。それを体験する。

「其の罪を滅するが故に之を理懺となす」
事懺と理懺というのがあるのですが、理懺とは理の懺悔
というのがあるわけです。
この理というのは、本体というか、絶対というか、根本
というか、そういう意味がこの理という意味にあるので
す。
そして事というのは、そういう絶対じゃなくて相対的に、
悪うございました、これからは致しませんというて、お
念仏を称えたり礼拝をしたり、或いはお百度を踏んだり
と、いろいろと身体を使い心を使ってしますね、そうい
うのを事の懺悔といいます。
絶対ではない、相対的ですから人が見ても分かる。
ところがこの理の懺悔というのは人には分からない。
姿は座禅の姿しかないわけです。
理の懺悔をするというのは禅より他は無いのです。
禅をして、そして自分の心を澄ましていって自分の心の
本性を見るということですから座禅より他はないんです
ね。
だから外から見たら座ってる姿しか見れないけれども、
事の懺悔というのは身体を動かしてね。
例えば比叡山の山巡り。
あれは修行といえば修行ですけど、あれで罪を滅してい
くんです。だから事の懺悔ですね。
そういうふうな身体を動かす懺悔を事の懺悔といいます。

今の「摩訶止観」のお話しは理の懺悔です。
これは禅ですね、禅によって自分の本性を見極めていく。
それによって自分の心にかかっている雲を払い除けていく、
滅していく。だから修行といえば修行ですね。
罪を滅するというところに重点を置いたらそれも懺悔、理
の懺悔。


それから次が、
「三宝を傍ぜず乃至六念等を修するを第一懺悔とし、父母
に孝養し師長を恭敬するを第二懺悔とし、正法を以て国を
治し、人民を邪枉せざるを第三懺悔とし、六斉日に於て不
殺を行せしむるを第四懺悔とし、深く因果を信じて仏の不
滅を知るを第五の懺悔と名づくるなり」

― 観普賢菩薩行法経 ―



「観普賢菩薩行法経」

三宝というのは、仏法相ですね。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と称えますね。
仏、仏が説いた法、それからその法によって修行をして仏
に成っていき、また教化する僧ですね。
僧というのは、舎利弗や目連のような方を僧といいます。
三つの宝ですね。
その三宝を謗(そし)らない、軽蔑しない。
そして「乃至六念」というのは、六つの心得ごとなんです。
それは、念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天。を絶えず
忘れない。
兎に角三宝に帰依する。
心の底から帰依する。至心に、ですね。
それから念戒ですが、戒律というと我々は全くといってい
いほど無縁ですよね。
ところが本来の昔の仏教の教団というのは、戒律というの
は必ず守ったんですね。
お釈迦様がお説きになってるお経よりも、お説きになった
戒律の方を、後のちの教団は重んじたんです。
戒律が無かったら、もう仏教教団はめちゃめちゃになると。
だから私が死んでも戒律は忘れてはならんぞといって、お
釈迦様が念を押されたんですね、それくらいなんで戒とい
うのを重んじなければいかんと。
これは自力的な言い方ですけどね、他力じゃないですから。
それから念施。布施ですね。
たえず布施ということを念頭に置いて、大につけ小につけ
布施をすると。
なんで布施ということを強調するかというと、人も助かる
んだけれども我々は執着しますね。
その執着の心を捨てるためのひとつの修行なんです。
その執着というのが、業の大きなポイントになるわけです
ね。
だからその執着を少しでも薄めるために布施をする。
執着の逆をするわけですね。執着を絶えず忘れてはいかん
ということです。
それから念天。
天というのは、天上界の天です。
兎に角、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間というそんなとこ
ろはもう忘れて、せめて天を希望する、天へ生まれるとい
うことを考えなさいと。
兎に角、天へ生まれないと、天を出ることは出来ませんか
らね。
これは他力ではありませんから。
ひとつひとつ飛び越えていきませんとね。
欲界を超え、色界を超え、無色界を超える。
天上界に生まれるということを、まず念頭に置けばと、こ
ういうことでしょうね。
これが六念といいます。
それを第一の懺悔とする。
それが修行ですけれどもそれが懺悔になり、それによって
罪が滅びていくのです。
そういう生き方はどうしても功徳を積みますしね。

「父母に孝養し師長を恭敬するを第二懺悔とし」
貢献的でございますが、みなさんどうでしょうか、時代は
どうであれこれを信じなければいけませんのでね。
お釈迦様は自分がお経を説くが、これは発明して説いてる
のと違うんだと。
宇宙の真理を発見して、こうなってるんだということを説
いてるのであって、客観的な真理を私が発見したのであっ
て、私が作ったものではないんだと。
仏出づるも出でざるもというのはそういう意味ですね。
いつの時代にも変わらないんだと。
父母には孝養し、師長というのは先生とか先輩とか目上と
かを尊敬する、を第二の懺悔とする。

「正法を以て国を治し」
正法というのは、王様とか今でい
うと政治家ですね。
是の場合は必ずしも仏法ではない、正しい法律であるとか
正しい政治によって国を治める。

「人民を邪枉(じゃきょう)せざるを第三懺悔とし、」
邪枉というのは、邪(よこしま)に負けてしまう。
正しく導くんじゃなくて、邪にしてしまう。
時代劇の番組を見てましたら、殿様が悪かったり代官が悪
かったりすると、必ず一揆を起こしたりして思わぬ罪を犯
してしまいますね。
悪気はなくても追い詰められてしまいますね。
そういうことをしてはいかんということです。
正しい法でもって国を治めていく。
人民をよいほうへ導かないといかん。
それを第三の懺悔とする。

「六斉日に於て不殺を行せしむるを第四懺悔とし」
この六斉日というのは仏教では、八日、十四日、十五日、
二十三日、二十九日、三十日。この日に四天王が、四天王
というのは直接我々の地上を監視している、守っている仏
教守護の神であり、仏教に帰依している神さんです。
その使いだとか、或いはその家来とか、四天王自身とかそ
ういう方々がこの地上を見廻るというのです。

そういうふうに見守るということをお釈迦様に誓ってるん
ですから責任がありますからね。
四人が東西南北の下を見守ってるわけです。
其の日に、地上へ下りてきて誰が何をしているといって見
廻る日になってるんですね。
だから特に其の日を心得なさいと。
せめて其の日だけでも心得よと。
それが六斉日なんです。


「観普賢菩薩行法経」

ですから特にその日に善いことをするといいということで
す。
せめてその日にだけは殺生をするな。
人は勿論のこと生き物を殺すなと。
ではその日意外だったら殺してもいいのかというと、いい
ことはないが我々は殺生をするということは向こうさんは