和尚さんの法話 『念仏減罪』
念仏減罪というテーマでのお話しでございますが、
宗教というものはどの宗教でも、おそらくは罪の意
識を認識する。
つまり罪悪感とよくいいますが、そういう意識を高
めるということを教えると思うのです。
その罪悪感というものは、罪だ罪だということを知
るということだけではなくてですね、罪を怖れると
いうことですね。
では何故怖れるのか、といいますと仏教で申します
ならば、罪を犯しますと罪には必ずその報いという
ものがございます。
罪報。罪の報いですね。
或いは業報という言葉がございますが、毎度申しま
すように、仏教は自業自得ですから。
先祖の因縁とか、他人のしたことによって自分がそ
の罪をかぶるというようなことは、仏教は言わない。
仏教の教えは自業自得ですから、自分が行って自分
がその報いを受ける。
だから自分が罪を犯したということは、必ずその報
いを自分が受けなければいけないんだということを、
まず信じなければなりませんね。
宗教は信じるものですから。
信じなければ一歩も進めませんね。
信じて、そして行じるものですね。
だから信地なければ罪の意識を持ったところで、恐
れということがあるんだということを説かれている。
その説かれたことを信じなければ、ではその次はど
うするかという次の問題に進まないと思うのです。
ですから宗教は、少なくとも仏教は罪を滅する教え
だと、こういってもいいと思うのです。
罪を滅ぼす教え。或いは、その罪から逃れるといい
ますか、超越するといいますか、ことを教える。
といっても必ずしも誤りではない。
キリスト教と多少解き方は違いますが、仏教では罪
があるから劫、劫は罪ですね。
その罪があるから救われない。解脱できない。
輪廻のお話しもしましたが、何故輪廻するのかとい
うと、結局は罪を背負ってるから、だから三界を輪
廻すると。
だからその罪を消滅しないというと、三界を解脱出
来ない。
最も仏教的な言い方をしますと、煩悩ということに
なってくるのですが、その罪の元が煩悩なんです。
罪を業といいますが、その業が起こってくるのはな
にかといいましたら煩悩なんです。
だから結局、罪を滅するというのは煩悩を滅する。
だからどうしても煩悩ということになってくるので
すが、それが根本ですから。
然しながらその罪を滅して、そしてそのことによって輪廻
から脱する。三界から脱する。つまり苦から脱する。
罪というものは必ず我々を、苦に陥れる元なんですね。
苦しみです。
感 ― 業 ― 苦
これはお釈迦様がお説きになった、揺るがす事ができない
原則なんですね。
人生はこうなんだと、お釈迦様がおっしゃる。
この惑(わく)というのは煩悩なんですね。
煩悩があるから、この場合は善業、悪業とありますが、悪
業のほうですね。
我々は善いほうは置いといてもいいんです。自分をプラス
のほうへ導いていくのが善業ですから。その方のことは差
し置いて。
問題は悪業ですね。
その悪業は、この惑。
これは煩悩です。
煩悩によって、業を作る。
罪業と書いてもよろしいですね。
其れには必ず報いがある。善悪共に報いがある。
結局我々は、この惑、業、苦によって三界を輪廻している
わけです。
だからこの苦から逃れるわめには、罪を犯さなかったらい
いのです。
罪を犯さないためには、煩悩を断ち切ったらいいんだとい
うように、業よりも惑のほうがどうしても根本的に説いて
くるわけです。
キリスト教ではこの罪ということをいうようですが、仏教
は罪というようり煩悩を説きますが、罪というのは説かな
いことはありませんが、これからお話ししますが罪という
ことも説いてるわけです。
その罪があるから、要するに解脱が出来ない。救われない。
ということですね。
そうすると罪を滅すれば、救われるということになります
ので。
そこで、その罪を滅するのはどうしたらいいのかと、こう
いうことですね。
今回のお話しは、主として念仏によって、罪を滅ぼすとい
うお話しです。
一般的な方法は罪を滅するというのは懺悔(さんげ)です
ね。仏教では「さんげ」といいます。
この字の意味ですが、禅宗の禅の字を禅定といいますね。
この禅というのは、インドの言葉を漢字にあててるんです
ね。
「ゼンナ」というのですが、それを省略して「ゼン」とい
ってるんですね。
ゼンナを漢字にあてて禅那と書いています。
禅那ということはどういうことかというと、精神を統一す
る、集中することなんだと。
だから定というのは、禅那の説明した意味の言葉になって
るんですね。
だから、禅はインド語。
定は中国語です。それを一緒に使ってるわけです。
懺悔もそうなんです。
懺摩という字をあててるんですね。
懺摩というのが懺悔。
― 摩訶止観 ―
この悔というのが懺摩の意味なんです。
懺摩というのは悔い改めるという意味。
だから悔、これ一字でも懺悔なんですね。
そういう意味なんですね、ようするに悔い改める。
悔い改めて、再び起こさない。
こういうのが懺悔の意味ですね。
その懺悔の方法といますか、それを次にいろいろと挙げ
ましたが。
必ずしも、悪うございました。
これからは致しません、というようなそういうかたちの
懺悔ですね。
そういうのも勿論懺悔ですけれども、それ以外に、仏像
を観想するとか、座禅によって自分の心の奥底を見極め
ていくとか、そういうことがそのまま懺悔になるんです
ね、仏教では幅を広くとって。
「一切の罪業は皆、心より起る。故に若し自心の本性空
寂なるを了せば則ち一切の罪障亦皆空寂なり。是の如く
実相の理を観察して其の罪を滅するが故に之を理懺とな
す。」
― 摩訶止観 ―
「一切の罪業は皆、心より起る」これは煩悩ですね。
「故に若し自心の本性空寂なるを了せば則ち一切の罪障
亦皆空寂なり」
我々の心というものは本来は空なんだ。本来空でありな
がらなかなか空に成れない。
空というのは、澄みきった空みたいなものだそうです。
ところが我々の心というのはなかなか澄みきらないで、
雲がかかる。
その雲を滅していくのがそのまま修行でもあり、懺悔で
もある。
だから、「自心の本性は空寂なる」。我々の心というも
のは本来は、絶対、絶対ということは空なんですね。
相対的か絶対的かといいますが、絶対。何の比較も出来
ない。そういうのを空というのです。
それを見極める。言葉ではそういいますが、これはなか
なか出来ないですよね。
「了せば」というのは、それを悟ればということですね。
「則ち一切の罪障亦皆空寂なり」
罪も心ですから。
ですから我々の心の中に善もあれば悪もあれば罪もあれ
ばいろんな善いものと悪いものとがごっちゃになって心
を染めてるわけです。
それが全部無くなれば、本来本性、空寂。空になってし
まう。
そういう境地が悟りというのですが、これがなかなか出
来ませんね。
「是の如く実相の理を観察して」
その実相とは真実の姿。我々の心の本当の姿というのは、
空なんです。
空というのは言語を絶して説明のしようがない。
本当は説明の出来ないものなんですね。
宗教というものはどの宗教でも、おそらくは罪の意
識を認識する。
つまり罪悪感とよくいいますが、そういう意識を高
めるということを教えると思うのです。
その罪悪感というものは、罪だ罪だということを知
るということだけではなくてですね、罪を怖れると
いうことですね。
では何故怖れるのか、といいますと仏教で申します
ならば、罪を犯しますと罪には必ずその報いという
ものがございます。
罪報。罪の報いですね。
或いは業報という言葉がございますが、毎度申しま
すように、仏教は自業自得ですから。
先祖の因縁とか、他人のしたことによって自分がそ
の罪をかぶるというようなことは、仏教は言わない。
仏教の教えは自業自得ですから、自分が行って自分
がその報いを受ける。
だから自分が罪を犯したということは、必ずその報
いを自分が受けなければいけないんだということを、
まず信じなければなりませんね。
宗教は信じるものですから。
信じなければ一歩も進めませんね。
信じて、そして行じるものですね。
だから信地なければ罪の意識を持ったところで、恐
れということがあるんだということを説かれている。
その説かれたことを信じなければ、ではその次はど
うするかという次の問題に進まないと思うのです。
ですから宗教は、少なくとも仏教は罪を滅する教え
だと、こういってもいいと思うのです。
罪を滅ぼす教え。或いは、その罪から逃れるといい
ますか、超越するといいますか、ことを教える。
といっても必ずしも誤りではない。
キリスト教と多少解き方は違いますが、仏教では罪
があるから劫、劫は罪ですね。
その罪があるから救われない。解脱できない。
輪廻のお話しもしましたが、何故輪廻するのかとい
うと、結局は罪を背負ってるから、だから三界を輪
廻すると。
だからその罪を消滅しないというと、三界を解脱出
来ない。
最も仏教的な言い方をしますと、煩悩ということに
なってくるのですが、その罪の元が煩悩なんです。
罪を業といいますが、その業が起こってくるのはな
にかといいましたら煩悩なんです。
だから結局、罪を滅するというのは煩悩を滅する。
だからどうしても煩悩ということになってくるので
すが、それが根本ですから。
然しながらその罪を滅して、そしてそのことによって輪廻
から脱する。三界から脱する。つまり苦から脱する。
罪というものは必ず我々を、苦に陥れる元なんですね。
苦しみです。
感 ― 業 ― 苦
これはお釈迦様がお説きになった、揺るがす事ができない
原則なんですね。
人生はこうなんだと、お釈迦様がおっしゃる。
この惑(わく)というのは煩悩なんですね。
煩悩があるから、この場合は善業、悪業とありますが、悪
業のほうですね。
我々は善いほうは置いといてもいいんです。自分をプラス
のほうへ導いていくのが善業ですから。その方のことは差
し置いて。
問題は悪業ですね。
その悪業は、この惑。
これは煩悩です。
煩悩によって、業を作る。
罪業と書いてもよろしいですね。
其れには必ず報いがある。善悪共に報いがある。
結局我々は、この惑、業、苦によって三界を輪廻している
わけです。
だからこの苦から逃れるわめには、罪を犯さなかったらい
いのです。
罪を犯さないためには、煩悩を断ち切ったらいいんだとい
うように、業よりも惑のほうがどうしても根本的に説いて
くるわけです。
キリスト教ではこの罪ということをいうようですが、仏教
は罪というようり煩悩を説きますが、罪というのは説かな
いことはありませんが、これからお話ししますが罪という
ことも説いてるわけです。
その罪があるから、要するに解脱が出来ない。救われない。
ということですね。
そうすると罪を滅すれば、救われるということになります
ので。
そこで、その罪を滅するのはどうしたらいいのかと、こう
いうことですね。
今回のお話しは、主として念仏によって、罪を滅ぼすとい
うお話しです。
一般的な方法は罪を滅するというのは懺悔(さんげ)です
ね。仏教では「さんげ」といいます。
この字の意味ですが、禅宗の禅の字を禅定といいますね。
この禅というのは、インドの言葉を漢字にあててるんです
ね。
「ゼンナ」というのですが、それを省略して「ゼン」とい
ってるんですね。
ゼンナを漢字にあてて禅那と書いています。
禅那ということはどういうことかというと、精神を統一す
る、集中することなんだと。
だから定というのは、禅那の説明した意味の言葉になって
るんですね。
だから、禅はインド語。
定は中国語です。それを一緒に使ってるわけです。
懺悔もそうなんです。
懺摩という字をあててるんですね。
懺摩というのが懺悔。
― 摩訶止観 ―
この悔というのが懺摩の意味なんです。
懺摩というのは悔い改めるという意味。
だから悔、これ一字でも懺悔なんですね。
そういう意味なんですね、ようするに悔い改める。
悔い改めて、再び起こさない。
こういうのが懺悔の意味ですね。
その懺悔の方法といますか、それを次にいろいろと挙げ
ましたが。
必ずしも、悪うございました。
これからは致しません、というようなそういうかたちの
懺悔ですね。
そういうのも勿論懺悔ですけれども、それ以外に、仏像
を観想するとか、座禅によって自分の心の奥底を見極め
ていくとか、そういうことがそのまま懺悔になるんです
ね、仏教では幅を広くとって。
「一切の罪業は皆、心より起る。故に若し自心の本性空
寂なるを了せば則ち一切の罪障亦皆空寂なり。是の如く
実相の理を観察して其の罪を滅するが故に之を理懺とな
す。」
― 摩訶止観 ―
「一切の罪業は皆、心より起る」これは煩悩ですね。
「故に若し自心の本性空寂なるを了せば則ち一切の罪障
亦皆空寂なり」
我々の心というものは本来は空なんだ。本来空でありな
がらなかなか空に成れない。
空というのは、澄みきった空みたいなものだそうです。
ところが我々の心というのはなかなか澄みきらないで、
雲がかかる。
その雲を滅していくのがそのまま修行でもあり、懺悔で
もある。
だから、「自心の本性は空寂なる」。我々の心というも
のは本来は、絶対、絶対ということは空なんですね。
相対的か絶対的かといいますが、絶対。何の比較も出来
ない。そういうのを空というのです。
それを見極める。言葉ではそういいますが、これはなか
なか出来ないですよね。
「了せば」というのは、それを悟ればということですね。
「則ち一切の罪障亦皆空寂なり」
罪も心ですから。
ですから我々の心の中に善もあれば悪もあれば罪もあれ
ばいろんな善いものと悪いものとがごっちゃになって心
を染めてるわけです。
それが全部無くなれば、本来本性、空寂。空になってし
まう。
そういう境地が悟りというのですが、これがなかなか出
来ませんね。
「是の如く実相の理を観察して」
その実相とは真実の姿。我々の心の本当の姿というのは、
空なんです。
空というのは言語を絶して説明のしようがない。
本当は説明の出来ないものなんですね。
作品名:和尚さんの法話 『念仏減罪』 作家名:みわ