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和尚さんの法話 『諸法集要経』

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常春というのもないでしょうね、永久に春というのは
ね。
やっぱり春が来て、夏が来てと日本はそうなってる。
だから春のそういう花の盛りのときは次々と花が咲く
けれども、やがて夏が近づくまでに花は散って落ちる。
それと同じように人間だけが長久、永久ではないとい
うことですね、花が散っていくのと同じように人間の
命も散っていく。決して人間だけが長久ではない。
無常であるということです。

「一切の楽は極(へん)あり」
喜び極(きわ)まる幸福の喜び。楽。幸福の喜びには
必ず終りがある。

「一切の楽は尽きる有り」
「一切の愛に別離あり」
愛別離苦ですね。

「一切の命に終わりあり。未だ死せざるに当(つね)
に修学すべし」
まだ死なないうちに、死んであの世へ行ってからでは
遅いんですね、生きてるうちに用意をしておかないと
いかんと。
修学とは、今のお話のように無常とはこういうことだ
から、信仰は大事だというそういうことを学んで得と
くして死後の用意をしていおかないといかんと。


「臨終の時」

「死怖は当に陰険なり。ただ正法のみことを救抜(ぐばつ)
す」
死の恐怖は陰険である、陰険とは非常に意地悪であるとい
うことですね。
救抜は救済して苦しみから抜く。
正しい仏法は苦しみの世界から救い出してくれる。
無常の世界から逃れさせてくれる。
信心を求めていくと安穏な場所。
例えば極楽がそうですね。
安らかな穏やかな死ぬ心配の無いそういう世界に到達する
ことが出来る。

「凡夫は死当に至らんとして少楽もなし」
我々凡夫は、何時来るか分からん死が切迫してきたときに、
今まで楽しんできたものも何処へやら。
今まであれもしてこれもしてと楽しんでたものも死の恐怖
で消し飛んでしまうというのですね。
仲の良い友達もたくさんあった。
然しながら一緒に楽しんだ人は、さて死ぬということにな
ったらその人たちはあの世まで一緒に付いて来てくれるか
というと、誰一人として従う者は無い。

「若しは、生前の所作臨終に悉く現前す」
生前に行ったことが、臨終になるとそれが現れてくるとい
うのですね。

「恐怖は只自ら知り眷族は虚しく祈る」
自分が苦しくなってきて、あのときやってきたことが、こ
うなってきた。
あのとき言ったことが、こうなってきたと苦しんでも、端
の人が見ても誰も分からない。
眷属、家族の人が心配して周りで見守ってるけど、なんで
苦しいのか分からない。
本人は分かってるんですね、あのときあんなことをしたか
らこうなって苦しいんだと。
それが分かったところで、代わってやることが出来ない。
これは極端な死に方かもしれませんが、苦しんでいること
が側で心配して見てる人がいても、代わりに苦しんであげ
ることは出来ないということですね。

「父母、親族、及び朋友、僕」
僕というのは下僕、召使のことですね。そういう人でもあ
の世までは付いて来ない。

「その人の命終の時燦然として」
死ぬときは誰も何もすることが出来ない。
本人がその死を恐れながら死んでいくしかないということ
です。
平素はどんなに大事にされ、どんなに使えてくれても、ど
んなに仲が良かった人でも死ぬときは別れなければならな
い。
あの世までは付いてく来てはくれない。ただ自分だけが苦
しみ恐れる。
それさえも代わってもらうことが出来ないという戒めです
ね。

「諸天は楽するが故に行灯にして明瞭ならず」
今度は天人のことを言ってるわけですが、天上界の天人も
人間とそう変わらないと言ってるんですね。
天上界へ生まれたらいろんな楽しいことがあるんですね。
兎に角いいところらしい。
今度はそれに執着してしまうというのですね。
それで修行をするのを忘れてしまう。
寿命も長いしね。
例えば、あの世の一日が、この世の百年とか二百年とか
お経に出て来ますけどね。
そんないい所でも、永久ではない。
やがて衰相が出てきて死んでいく。
だから天人も楽に幸福に執着するが故に明瞭ではない。
仏法の立場でいうと愚かであると。
天上へ来たのは、いいことをしたから来たけれども信心
ということでは、もうひとつ至ってないわけです。

「一切は悉く無常なり快楽(けらく)も何等久住せん」
住とは住むということですね。久しく住(とど)まらな
い。
これは天上界のことを言ってるわけですが、どんなに楽
しいところであっても、いつまでもそこにとどまらない。
人間よりは長いけれども有限であるということですね。

「幻法(げんぽう)は」
幻はまぼろしという意味ですね。
法というのは、この場合は存在という意味です。
全てのものは幻のようなものだというんです。
そして波のようにずうっと流れていく。

「実相は常に動じず」
幻法は仮の物に対して、実相は本当の物。
心も含まれますけれども、我々は信心を持ってる。
それを実相と思って頂いたらいいと思うのです。
無信心は、幻法ということになってくるわけです。
幻法は全て移り変わっていくけれども、実相は常に動ぜず。
不動である。

「諸天の宮殿を出脱すは正法によらざるを得る」
諸の天人は天上へ行けば御殿に住んでるわけですね。
我々に家があるように天人にも家がある。
ところが、せっかく悪いことをせずに善いことをしたから
天上界へ生まれてけっこうな宮殿へ住んでいたけれども、
やがてその寿命も尽きて、宮殿も捨てて死んでいかんなら
んわけです。
それは、信心という正法を得ていないから三界という有限
の世界にしか来れない。
これが若し、本当の念仏の信心を持ってたら、天上へ行か
ずに極楽へ行ってるはずですね。
善いことをして、悪いことをしなかって、幸いなことに天
上界へいって結構な宮殿へ住んでいたけれども、やっぱり
そこの寿命が尽きて、そこを捨ててまた死んでいかなけれ
ばいけない。
それは正法というものをえ得してなかったから。

だいたいこれでこのお経の言わんとするところはお話でき
たと思うのですが。
要するに、無常ということです。
無常ということで、あの世へ行ったら、兎に角この世の自
分の行いの如何によって、行く所が違うということです。
そして善いところへ行って宮殿というそんな天上界へ行っ
たところで、結局また寿命が尽きて死ぬ。
死んでまたこの世へ生まれてきて、また今度はどうなるか
分からない。
だから正法を得とくしておかなければならん。
信心決定しておかんと、あの世へ行って後悔するぞ、とい
うお経ですね。

「無始の輪廻より無明の為におわるも、仏語に依りて能く
断すること日の黒暗を除くが如し常に此の語を思愉せば能
く超越して不滅の所に至り最上の安楽を得ん」

無始というのは終わりが無い。
この空間には何処までいても始めも無ければ終りもないよ
うに、我々の霊魂というものも始めが無い。始めから有る
というのです。
変化はしていきますよ。
変化はしていきますけど、何時生まれて何時滅びるという
ように、生まれてくるから滅びていくのです、生者失滅で
ね。
その変化は生と死ですけれども、無始以来ずうっと輪廻を
繰り返してきてるんです。
それは無明の為に。迷いですね。