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和尚さんの法話 『諸法集要経』

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まだ迷いの世界とはいいながら色界、無色界の天上界に
比べたら、この世はまことに劣った劣等の世界だと、陋
劣の世界だというのです。
この劣った世界に

「よく快楽を生じ」
我々はこれが楽しい、あれが楽しいと、そういう快楽ば
かりを求めてるというのですね。

「無知、愚痴なるにより」
無知であり、または愚痴。
この愚痴という言葉はちょっと誤解されることがあるの
ですが、無智はものの道理が分からないことを言うので
すが、愚痴というのはこれも愚かという意味なんです。
一般に愚痴というのは、口で言うのが愚痴といいますね、
あの人は愚痴の多い人やと、泣き言ばっかり言うと。
こういうときに愚痴というのを使うでしょ。
言葉を愚痴というのですよね。
そうではなくて仏教の本来の愚痴という意味は、ものの
道理が分からん。
つまり因果の道理が分からんという意味なんです。
つまりここで自分が嘆くというのは、自分は前世で泣か
せてあるから、今泣かんならんのだと。
そういう仏教の道理が分からんから、嫁が悪い姑が悪い
と人ばっかり攻める。
自分が先に、前世でやってあるからその裏返しが現在き
てるわけです。
その因果の道理が愚かということを愚痴というんです。
だからその愚痴から言葉が出てくる。
泣き言が出てくるんですね。
その言葉が我々は愚痴だと思ってるわけですが、その言
葉が出てくる元。
因果の道理を知らないということを愚痴というのです。


「永久の救い」

「命の偏在を知らん」
命の限りがあるというのを知らんと、あの世へいったらい
いというけど、あの世へいっても限りがあるし、この世へ
きても限りがある、これを繰り返す。
仏教は、永久の救いを説くんですよ。
死なない世界への到達です。
苦しみはいろいろありますけれども一番大きな苦しみは死
ぬということですよ。
死ななかったら、命が永久にあったらその上に出てくる苦
しみはたいしたことはない。
やっぱり死ぬというのは一番大きいですね。
どんな幸福も全て奪われてしまいますよね、死ぬというこ
とによって。
ところが死なない世界。死なない命というものがあるなら
ば、それを獲得する。
それを教えるのが仏教なんです。
その具体的な一例は極楽往生なんです。
極楽へ行ったらもう無量の寿の世界。
無量寿国というて、決して死なない。
それは阿弥陀様が死なさないんです。
阿弥陀様のご慈悲によって、極楽へ来たらもう絶対に転落
させないぞというご誓願があるから。
だから極楽さえ行けば後はもうお任せすればいいわけです。
ところが、極楽は別として自分の力でもって三界を出たら
いいんですよ、それがなかなか出来ませんわね。
いろんな修行が要りますからね。
我々は結局命というものは限りがあるから、百二十まで生
きたってまあまあですわね。
兎に角我々の命には限りがあるんです。100%ある。
それは何時くるか分からない。
これは在原業平の歌ですが、
『つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざ
りしを』
死ぬということは分かっていて何れ逝くところだと、必ず
逝くところだと分かっていたけど、昨日や今日とは思って
いなかった。
こんなに早く死が来るとは思わなかったという歌ですね。
いずれ死ぬと分かっているけど、昨日今日とは思わないも
のですが、急に死が来ることもあるわけです。
急に死ぬときがきて、それでも少しの死ぬまでの短い命の
間に気が付いて信心決定が出来ないこともないわけです。
あり得るんですね、下品下生がそうなってますね。
下品下生というのは、極楽へ往生するのに九とおりの仕方
があるんですね。
上品の上中下、中品の上中下、下品の上中下と往生の仕方
に九品あるわけです。
上品上生の往生の仕方と、下品下生の最低の極楽往生の仕
方をする人。
それはどういう人が下品下生かというと、人を殺してある。
もちろん物をとったり嘘も言ってるというような罪もある
し、あらゆる罪を積んでる、そういう人なんですよ。

人を殺してあっても、死ぬその瞬間に、幾日か、何時間か
の命があって物の判断が出来る。
そのときにたまたまその側に善知識の人がいて、おまえは
もう死ぬのが近いんだから、仏様を念じよというて教える
んです。
仏様を念じよというのは、仏様のお姿を目の前に浮かべよ
ということです。
皆さんも、阿弥陀様とかお地蔵様とか観音様とかお不動さ
んとか、かつて見てあったら想像が出来ますよね、その思
い浮かべるのがもの凄く功徳になるのです。
だからそれをしなさいと言うて教えるのです。
ところが下品下生ですから罪が多いから苦しみがいっぱい
迫ってきて、仏様のお姿を思い浮かべる精神統一が出来な
い。
思い浮かべることが出来ないのなら、南無阿弥陀仏と称え
なさいと、阿弥陀様の名を称えなさいと教えるんです。
そしたらそれは出来るんですね。
心は乱れても、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏と称えること
は出来るわけです。
そして十遍称えた。
あらゆる罪を犯した人ですよ、殺人も犯し、窃盗もしたよ
うな普通だったら死刑になるような罪の人でも、死の直前
にお念仏を称えることが出来たら極楽往生することが出来
るんです。
それが下品下生なんです。
だから、孔子のような方でも天上界へ往生は出来るでしょ
うけど、極楽往生は出来ていない。
然し、どんな罪があってもお念仏さえ称えることが出来た
ら極楽へ往生できるんです。
だから宗教というのは懺悔ということがなかったら、どん
な些細なことでもやってしまったら、あの世へその罪を持
っていかんなりません。
ところが法律では死刑になるような罪の人でも一念発起し
て念仏を称えることが出来たら極楽へ往生することが出来
るのです。
だから非常に厳格といおうか寛大なといおうか。
ですからあの世の用意をするということは信心ですよね。
信心をしたら自然と悪いことも出来なくなってきますけど
ね。
極楽へ往生できるんだということを、それは安心したらい
いけども、だからというて悪を積んだらいかんぞと、法然
上人がいうていますね。
十悪五逆の者も生まれると信じ、小罪をも犯さずと思うべ
し。
どんな大きな罪を犯して死刑になるような罪を積んでおっ
ても信心さえあれば極楽へ往生出来ると。

だからほんのちょっとの罪も犯さんようにと思いなさい
よと。
そしてお念仏を、一念十念虚しからず。
一遍でも十遍でも必ず往生出来るということを信じて、
だからもうこれでいいと思うんじゃなくて、絶えず暇が
あったら称えなさいというてますね。
間断無く無間に称えなさいと。
今言う死刑になるような罪を積んでいても、一念発起し
ないといけませんけれども、念仏を称える。
そしたら極楽往生できる。それが用意です。
この世のことにばっかりに囚われて執着ばっかりして自
分の一番大事な死後の用意をしていない。
という警告を説かれているわけです。

「陽春の時種花悉く開発するを見るも」
春になったら花がいっぱい咲く。
種花というのはたくさんの花が開くということですね。

「時敬速やかに潜流するが如く人も長久ならんや」
しかしながら春は永久に春じゃない。