和尚さんの法話 『懺悔文』
お釈迦様の足元を照らすために皆が御燈明を付けるんで
す。
そのときそのナンダが、私も皆にあやかって御燈明をお
供えして、少しはお得を積まさせて頂きましょう。
と、いうわけでお金の工面をするわけです。
燈明の油を買わんなりませんからね。
一所懸命に働いてお金を貯めて、そしてお釈迦様がお通
りになるその日になって、油を買うだけのお金が足りな
い。
もうこれしかない。
油を買いに行ったところ、やはり足りなかった。
そこで髪の毛を切って売って、そして油を買いに行った
けどまだ足りない。
一番最低量の油を買うのにまだ足りない。
そこでその油屋が、貴方のような境遇の人が何故油が要
るのかと聞いた。
他所の家へ雇ってもらったら油は要らんだろうと。
何処でどうしてその油が要るんだと。
実は、お釈迦様がお帰りになってくるというので皆さん
が御燈明の用意をしてなさいますということを聞きまし
て、私もささやかではございますが御燈明を差し上げた
いのです。
それを聞いた油屋の主人は、そういうことならこの油は
まけてあげるから、というてお金は足りないけど最低の
量の油を買った。
そして御燈明としてお供えするわけです。
すると長者の万燈といいますね、お金のある人はお金に応
じて沢山の御燈明をお供えする。
数が多ければ多いほど功徳になるのですからね。
ですからそれだけの多くの燈明が立ってるから小さい燈明
はどうということはない。
ないのですけれども、仏教は量で計らないんです。
質で計るんです。
つまり境遇によって功徳が違うわけです。
例えば、或る人は一万円の寄附をする。
或る人は十万円寄附をした。或いは百万円とありますね。
ところがこの一万円寄附をした人と、十万円、百万円寄附
した人とでは財産の財力を計算すると、この百万円寄附し
た人はもの凄くお金持ちで、一万円の人は非常に貧乏で本
当はこの一万円が勿体ない、この一万円があったら随分助
かるんだが、といような境遇の人です。
百万円出した人はそれだけ出してもちっとも困らない。
そうすると、同じ出した功徳は一万円の人のほうが多い。
そういうふうに計ってくれるんです。
境遇によって功徳が違う。
そうじゃないと金持ちは何時でも功徳を積めるけど、貧乏
な人はちっとも功徳を積めないということになってしまい
ますね。それが融通がきくというわけです。
小さい燈明は、自分の全財産をはたいて、自分の髪まで切
って売って真心のこもった燈明ですね。金額は少ないけど。
だから長者が万燈を出した功徳よりも、この貧者の一灯の
ほうが、功徳ということからいいますと遥かに大きい。
そしてお釈迦様がお帰りになって祇園精舎へおはいりにな
る。
夜道には燈明が明々と燈っていますので、お弟子さんたち
が火の用心のために見廻りに行くわけです。
すると時間がたってきますと、ぽつりぽつりと灯が消えて
いきますね。
ところがそのナンダが供えた小さな燈明がなかなか消えな
いのです。
量が少ないのに消えない。
それで不思議だなというので、或るお弟子さんがお釈迦様
のところへ行ってそのことを言うのです。
大きな燈明が先に消えてるのに、小さい燈明はなかなか消
えません、不思議なことでございますと言ったら、お釈迦
様が、ナンダが供えた燈明だなと。会ってもいないのに超
能力で分かるんですね。
それはナンダという貧しい女性が供えた燈明だと。
だから真心が籠ってる。
長者の万燈よりも遥かにこのナンダの一灯のほうが真心が
こもってる。
するとお弟子さんが、そんな心掛けのいい人が、何故そん
なに貧乏ですかと聞いた。
これは誰もが思うことですね。
そこだけ見たら心掛けがいい人ですよね。
そんな良い人が何故そんな苦労をするのかと思いますね。
過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ。
というのが仏教の原則ですから、お釈迦様がすぐにその
ナンダの前世を観るわけです。
宿命通という超能力で、前世で何をしてこの世でこのよ
うな貧乏になってるのか。
ご存じのように仏教では次から次から仏様がこの世へお
出ましになりますね。
後にも先にも仏様はお釈迦様お一
人で、こうこれからは仏様が出て来ない、過去にも無い
というのではない。
過去に恒河砂数の仏があると言いますように、浜の真砂
の数ほどの仏様が過去にもあり未来にも出てくる。
次から次から仏様が長い時間がかかるけれどもお出まし
になって仏教を広める。
また時間がたって仏教が消える。
そしてまた長い時間がたつと次の仏様がこの世へ出てき
て、衆生済度のために仏教を開く。
それを繰り返してるんです。
だから過去にも無数の仏様がこの世へ出てるのです。
その過去の或る仏様がこの世へお出ましになっていたと
きに、仏様がお徳が高いから功徳を積まして頂きたいと
いうので、先ほどのように祇園精舎のようなところにず
らっと朝から並んでるんです。
供養を受けて貰いたいというのでね。
ところが全ての人から受けるわけにはいかないので、教
団の僧の数と信者のお供養の量と考えて、今日はここま
でこれだけお供養してもらったら充分だというのでお弟
子さんが列に来て、今日はここまでにして下さい、あと
はまた明日にして下さいといって切ったんですね。
そこで切られたその人は大家の奥方だったんです。
大きな家の婦人だった。
ところがその奥方の前に並んでいた人は、もの凄く貧乏
な水簿らしい姿をした女性だった。
そこで切られたんですね。
それでその大家の婦人が腹をたてたんですね。
お前のような貧乏人が並ぶから今日はここで切られたじ
ゃないかと、言わんでもいいことを言った。
お前が並んでいなければ私は功徳を受けることが出来た
のに、この貧乏人が、と罵った。
さて比丘たちよ。比丘たちとは弟子たちのこと。
今の大家の婦人というのが、今のナンダなんだと。
ナンダが前世で、貧乏な人が並んでいたら自分が前だっ
たら代わってあげましょうと、私はまた明日来ますから
貴方は今日お供養を受けなさいと。
本当に優しい人だったらそうしますね。
今日だけで一生出来ないというのと違うのだから。
「馬料の麦」
それを腹をたてて、この貧乏人がと罵った。
その報いで、現世ではこの貧乏人が、と言われるような
境遇になってるんだという。
それが貧者の一灯という。
これは口の業です。
仏教では、我々凡夫が修行をしてだんだんと位が上がり
そして如来と成るわけです。
だからお釈迦さんもお経にありますが、自分も地獄に落
ちたことがあるというお経がありますね。
我々もあったに違いない。
そういうふうにだんだん修行をして菩薩となり如来と成
る。
如来というのはもう完全無欠の人格者という意味です。
だからお釈迦様もはじめは凡夫であった、その凡夫の時
代の話しですが、その時代も他へ教化に行ってた。
祇園精舎を根拠にして他国へ。
昔は日本も国と言いましたね、河内の国とか紀伊の国と
か。
インドも小さな国がいっぱい集まってインドという大国
になっていた。
そういうふうに他国へ教化に行ってた。
お釈迦様のお説教を聞いたら皆お釈迦様の仏教信者にな
ってしまうんですね。
作品名:和尚さんの法話 『懺悔文』 作家名:みわ