和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』
だから本当の仏教に遇うということは縁ということで、
仏教はよく縁ということを言いますね。
縁が深いとか、縁が浅いとか。縁が薄いとか。
縁が無いとか。
縁が無いということになると、お釈迦様も救い難い。
その縁というのは、ふれあいですね。
袖すれ合うも多生の縁といいますように、ふれあいです
ね。出会いです。
その出会いが一遍の人よりも二遍の人のほうが、二遍の
人より三遍の人、三遍より四遍と縁が重なって行く、深
まっていけばいくほどその人と仏法との縁が深まる。
こういうお話しを一遍しか聞かない人と、何遍も聞く人
とでは仏縁の深い浅いの違いが出てきますね。
また仏教に対して何の抵抗も無く入れる人と、なかなか
そうはいかないという人では、過去の触れ合いがどうで
あったかと、過去に持っていかないと分からない。
過去に仏縁を深めていたら、この世でも何の抵抗もなく
すうっと入れるけど過去に仏縁が無かったら、それはも
うお釈迦様も救えない。
これも今までにお話しがあったと思いますが、お釈迦様
がお弟子さんと一緒に道を暑い手いた。
そこにみすぼらしい婆さんが一人座っていた。
お釈迦様は婆さんの前を素通りしていったので、お弟子
さんが、世尊、そこに哀れな老婆が一人います。
導いてやった頂きたい。と、お釈迦様に後ろから声をか
けたんですね。
するとお釈迦様は、この者は縁なき衆生だと。
すると阿難は、若し縁が無ければ世尊のほうから縁を付
けてあげたら如何でしょうかと。
「縁」
お釈迦様は、そうかと戻ってきて、お婆さの前へいって、
婆さんよと声をかけたら、婆さんはくるっと背中を向け
てしまった。
また前へいって婆さんよと声をかけたら、また婆さんは
反対向いてしまう。p釈迦様と顔さえ合わそうとしない。
分かったか、この者は私に縁のない衆生なんだと。
お釈迦様は側を通るだけで分かってるんですね。
仏教では縁が出来るまでは絶対にだめなんですね。
例えば、目連に縁のない者が、救おうとしても救われな
い。例え舎利弗でも縁のない者は救えない。
お釈迦様でもそうなんですよね。
「縁無き衆生は度し難し、一切衆生は尽し難し、業決定
は転じ難し」
これを三種不成といいます。出来ないんですね。
縁なき衆生は度し難し。
これは縁が出来てくるまでは絶対に救われない。
一切衆生は尽し難し。
この衆生という言葉は、広い意味では生物全部をいう。
生物、虫の一匹まで霊魂を持ってるものです。
狭くいうと人間です。
広くいえば生物全部ですから、人類、鳥類、獣類、虫類、
魚類これが生物ですね。これは仏教からいうと霊魂を持
ってるから。
植物と動物の境目は、霊魂を持ってるか持ってないかと
いうことです。
植物なのか動物なのか分からんものがありますね。
虫が来たら派を閉じて虫を溶かして食べてしまう植物と
か。
それははたして動物か、それは分からないけど、然し霊
魂があるか無いかと。
お釈迦様が居たらこれは動物だ、これは植物だと分かる
のでしょうが、兎に角、霊魂の有るものが衆生なんです。
一切衆生は尽くし難し。
これは霊魂は人間だけじゃありませんからね。
獣類から虫類に至るまでも霊魂ですからね。
その霊魂というのは無数の一定数ですね。
それは、尽し難しというのは、仏教では皆が仏に成って
いくという教えですよね。
お釈迦様も阿弥陀様も凡夫の時代を通過して、過去には
虫だったことがあるかもしれない、獣類だったかもわか
らない。
我々もそうですよ。
ところが未だに、鳥であり虫も多くいるでしょ、それが
全部仏に成ってしまうのは出来ないというのです。
業決定は転じ難し。
例えば、おぎゃあと生まれた子供が、如来様の眼で見た
ら、三十で死ぬと、決定した業しか持ってないものがあ
るんですね。
我々が見てもわからないけど、仏様は分かる。
するとその子は三十になって死ぬ。
三十一には絶対に成れない。
三十に近くなって病気が起こってきた。
医者だ薬だと手当をしてもこの子は死ぬ。
例えお釈迦様がご祈祷したって死ぬ。
それを決定の業といいます。
だから目連尊者が、闇討ちに遇って死にますよね。
それは前世の決定の業だから。
神通力を心得てるんだから逃げたらいいんですよね。
今のように鉄砲で襲われたのと違うんですよ、待ち伏せ
に遇ったんですね。
そして石や棒で叩き殺されるんですね、外道に。
お釈迦様以前に他の宗教がありますから、バラモンとか
いろいろね。
ところがお釈迦様は徳が高いので他の宗教から仏教へ仏
教へと集まってくるんですね。
それであの手この手で仏教を迫害するわけです。
そういうことで目連は迫害されて死ぬ。
待ち伏せすれば目連は神通力で分かるはずなんです。
ところが殺された。それは決定の業なんですね。
即死じゃなかったんですが、同僚が気が付いて抱えてお
釈迦様のところへ連れていくわけですけれども、そのと
きに友達が、お前は十大弟子の中で而も最高の弟子で神
通第一というのになぜこういうことが予期できなかった
のかというんですね。
するとこれは前世の決定の業で、私は神通のじの字も思
いだせなかったと。そういうのですね。
それでお釈迦様のところへ行って、お釈迦様に目連はど
んな決定の業があるんですかと訊ねた。
目連も凡夫のときがあったわけです。
そのとき新婚家庭を持ってたんですね。
お父さんがなくて、お母さんだけでした。
そのお母さんと嫁さんがいつも喧嘩ばかりするんですね。
目連は嫁さんの方へ付いて、或る時自分の母親に、この
くそ婆ばあ殺してやろうかと言ったんですね。
その罪だというのです。
口で言っただけですよ。殺したわけじゃないんですよ。
お経にはくそ婆ばあというようなことは書いてませんけ
れども、そういう意味のことを言ったんですね。
仏教では親を殺すというのは五逆罪になりますね。
その親を殺したんじゃないけれども、悪口を言った。
その報いでいつ生まれても殺されて死ぬんです。
過去五百回は常に最後は殺されて死ぬんです。
それでこれが最後だと。これで決定の業が全部消えたと。
目連は何故殺されたかというお経ですね。
だから我々が、これだけ信仰もしてるのに悪いこともし
てないはずなのに、何故こんなことになってくるのかと。
嘆くことがありますね。そ
のときは、決定の業と。
そうでなかったら、もっと努力したらよくなるのに努力
が足らんと。
「業」
例えば、業といっても十パーセントの業もあれば、五十
パーセントの業もあるし、百パーセントは決定の業です
ね、然し九十パーセントの業もある、或いは八十パーセ
ントの業は我々凡夫にはひっくりかえすことが出来ない。
やれば助かることがあるかもしれないけど出来ないこと
がある。
例えば、病気になって水も飲めないというような病気に
なってる。
仏様の目から見たら、これは前世で困ってる人があって
もちっとも助けなかった。
水が欲しいといっても水もやらなかった。
そんな業があったとしますね。
水さえやれば死なずにすんだのにその水さえやらなかっ
た。
その業の報いでこういう状況になってるとしますね。
作品名:和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』 作家名:みわ