和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』
「臨終の一念は平生百年の業に勝る」こういうお言葉
があります。
臨終のときの一瞬の心理状態ですね。
或る人が悪いことばっかりしてきたが、臨終のときに
ふっと、仏様のような気持ちになって悪かった、と懺
悔したとします。
そして死んでいった。
その場合は、それまで悪人だった者が、善心になった
んですよね。
死の瞬間に、ああ悪かったと懺悔の念が起った。
それが一瞬の心持ですが、そういう状況になったらそ
の人は、仮に百年間悪いことを続けてきた。
その業が消えるというのです。
だからその逆もあるわけです。
折角、百年間善いことばっかりしてきた。
ところが臨終のその一念が、今までつまらんことばか
りしてきたと後悔した。
もっとずるく生きればよかったんだと、いうような気
持ちになった。そして死んだ。
せっかく百年間善いことばかりしてきたのにその善い
業が全部消える。
だから臨終に念仏を称えるんだと教えられた。
その念仏を称えるのは今なんだと、南無阿弥陀仏と称
える。
するとその人は極楽往生出来る。こういうことです。
それは、正念が無いと分別が出来ませんから。
だから臨終の正念を仏教はやかましく言うのです。
それを一般に一番大事な時を正念場と言ってるわけで
すね。
当に今死ぬという時が正念場なんです。
それが、病気というのは生理現象ですから自分の自由意
思になりませんね。
だから呆けというものは、自分の自由意思ではどうにも
しようがないですね。
ところが、若しその人が平生に信仰が出来ていて信心決
定していたと、つまり自分でこれで信仰が出来ていると
思うのではだめで、如来様があの世からご覧になってて、
あの人間の信心は本物だなと、あの者が死んだら引き取
ってやらないといかんなと、そういう人だったら、おそ
らく呆けないはずなんです。
臨終を正念にしてくれるんです。
全て往生に関することは、如来様が仕向けてくれるとい
う言葉があるのです。
どんなことでも自分が出来るんだと思っていたらいかん
と。
如来様がして下さるんだと、その条件は信心なんだと。
本当の信心になってる者だったら、呆けそうになっても
呆けさせないで下さる。
だから必ず正念になるのです。
正念は如来様がして下さるんだということです。
それにつけても死後の世界がある、阿弥陀様が実在する
ということになってこないといけませんね。
阿弥陀様もあの世にばっかり居ったのではない、この世
に何回も出てきているというお経があります。
或るときは法蔵菩薩という菩薩の時代もあったと、お経
にも出てきますね。
お地蔵様もそうですよ。
お地蔵様や観音様というのは架空で作り物だと思ってい
る人もいるでしょう。
ところが地蔵経というお経を読んでみますと、我々人間
と同じ過去があるわけです。
お地蔵さんもはじめから菩薩かというとそうじゃない。
我々と同じような苦労もし、幸福も味わってきてるんで
すが、女性の時代も通過してきてるんですね。
永遠に昔から男なら男、女は女かというとそうじゃない、
男になったり女になったり、場合によっては犬になった
り猫になったりしているわけです。
お地蔵様というお方はかつては女性であった時代がある
とお経に出てきます。
女性であったからお産の苦労をよく知ってるんですね。
現在の地蔵菩薩は男です。
観音様を女だと思ってる人がありますが、観音様も男
です。妙見菩薩は女性です。
天人も男性もあれば女性もある。
自分が男で衆生済度をしたいと思うと男の菩薩になるし、
女性で衆生済度をしたいと思うと女性の菩薩になる。
男性も女性の姿で衆生済度をしたいと思えば女性の姿に
なるし、これは自由自在になってくるんですね、修行を
積まれた人はね。
兎に角霊魂というのは、本来男も女も何も無いんですね。
皆平等なんです。形が無いんです。
それで現象として現れた時に、男性になるか女性になる
かということが出てくるけど、本質的には平等なんです。
空ですからね。空ということは、男でもない女でもない
白でもない黒でもないというものを空なんですね。
お地蔵様も男になったり女になったりして衆生済度をし
てきたとお経にありますね。
ですからお地蔵様も人間のときがあったんですね。
お釈迦様もそういう時代を通過してきてるし、みんなそ
うですよね。
我々もずっと見らいになったら、ああいう時代もあった、
説教も聞いた時代もあったなと。今度は自分が説く番だ
と。
だから折角我々は人間界へ来たんだから、下へ転落しな
いように、あがっていかないといけませんよね。
声聞となり、縁覚となり、仏と成ると。
そういうふうに順序を踏んで行かれる方もあるし、極楽
へ一足飛びに往生して、そしたらもう菩薩にさせてもら
えます。
話はいろいろありますが、その根本は霊魂は不滅である
ということです。
不滅でありながら有限を繰り返している。
生まれたり死んだり生まれたり死んだり永遠に之を繰り
返している。
つまり無常だと。
「仏道に志す者は無常を心得るべし、無常を心得る者は
地獄を怖るべし、地獄を怖る者は極楽を願うべし、極楽
を願い者は南無阿弥陀仏と称うべし」という言葉があり
ます。
和尚さんの寺の檀家さんの親戚の人が死ぬとき、落ちる
落ちる、落ちるから縛り付けてくれと言って死んだそう
です。
これは地獄か、兎に角奈落の底へ落ちていく人ですね。
これは霊魂が落ちるんですよね。肉体は布団に寝てるん
だから。
たまにこういう人がいるそうです。
オウムの浅原という人もどういう死ぬ方をするか分かり
ませんが、仏教だといいながら平気で殺人を犯す。
おかしいですよね。
それについて行く人もおかしいと思いますね。
こういう人はほんとうの仏縁が無いんですね。
言うてることはチベット仏教なんですね、然しほんとう
のチベット仏教はあんなものじゃないんだけれども仏教
なんですね。然し本当に仏教ではない。
こういう言葉があります。
「付仏法の外道」この外道(げどう)というのは外
(ほか)の道という意味です。
よくこの外道、こらしめてやる。といいますが、本来の
外道というのは外の道、内の道という意味です。
内道というのは仏教のことです。
外道というのは他の宗教という意味です。
仏教の言葉ですけど、他のことにも言えるわけです。
派があって他の派を外道と言ってもいわけです。
外道外道と批判するような言い方はいけませんが、本来
の意味は只単に自分と違う道の人という意味です。
付仏法という言葉がありますが、これは自分では仏法と
思ってるんですね。
そしてこの教えが仏教ですよ、これが仏教ですよという
のですが、その内容はほんとうの仏教じゃなくなってる。
こういうのを「付仏法の外道」と言います。
浅原という人はそうですね、自分はお釈迦様の生まれ変
わりのように思ってる。
それくらい仏教のことを思ってるけど、説く内容は全く
違う。
お釈迦様は殺生ということを一番禁じたのですから。
そして布施という教えを悪いほうへ利用してますね。
兎に角、仏教だと言いながらその内容は仏教になってい
ない。
作品名:和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』 作家名:みわ