和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』
また生まれてはまた死ぬ。
そういう里に生まれておきながら、生死ということを考
え悟るということはないと。
無常の境に住む者も
無常を知れる事ぞなき
これは言葉が違うだけで同じことですね。
つまり生死無常ですね。
常ということは、変化しないということですね。
変化しないということは、生まれないし死なないという
ことです。
仏教ではこの常という字の下に、住という言葉を入れて、
常住と使います。
ところが常住ではないんだ無常なんだということを知ら
なきゃならないんだと。
こういう認識を持たなきゃならないんだけれども、その
無常の境に住む者も、無常を知れる事も無しと。
一般の人々は仏教ということをちっとも考え及ばさない
人々を歌ったものですね。
もうひとつこういう歌がありまして、
「三界火宅と説きおけど驚く人こそ無かりけれ」
この三界といいますのは、欲界、色界、無色界。
つまり輪廻の世界ですね。
我々はいったい何処を輪廻してるのかというと、この欲
界と色界と無色界。
この三つですから三界というわけです。
つまり三界ですから六道ですよね。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、この六道。
この六道三界をぐるぐると生まれ変わり死に変わりをぐ
るぐると繰り返しているのです。
この三界火宅というのは、燃えてる家ということですが、
これは法華経というお経の中に出てくるお釈迦様のお話
しのなかの例えのお説法があるのです。
それは我々がこの世で安閑としている。
死ぬということをちっとも考えない。
未来のことも後生のことも考えないで、只その日さえよ
ければいい、この世のことばかりに執着して生きている、
というそういう人々を例えてあるのです。
それは、大きな屋敷がありまして、その家には小さい子
供がおもちゃで遊んでいるんですね。
ところがその家は外から火事になって燃えてきてるんで
す。
何れそのままにしていたらその家は燃えてしまってその
子供は死んでしまう。
ところが子供は火事に気が付かず、おもちゃを持って面
白いと遊んでいる。
我々が毎日毎日日暮して未来のことも考えないで死ぬと
いうことも考えない。
今夜死ぬかも分からないのに。
その日その日のことばかりを考えている。
それは子供が能かも燃え盛ってる家で自分が焼け死ぬこ
とも知らずに遊んでいるのと同じだと、こういう例えで
す。
この和讃は、そういうふうにお経には説いてあると。
然しながらそれを聞いても誰もちっとも驚かない。
こういう歌があるのです。
「三界火宅と説きおけど驚く人こそ無かりけれ
苦悩の娑婆に身を置きて楽しむ心ぞ憂かりける」
この娑婆の世界というものは、だいたいこの娑婆という
この言葉は、向こうの言葉に置き換えたら苦界とか忍土
といって、常に苦労して辛抱して辛抱していかんならん
世界と、仏様の目から見たらそうなんだというのですね、
この娑婆というのは。
皆は正しいと思っているかもしれないけど、覚った者か
らみたらこんな苦労な世界なんですね。
三界を出たことがないからこの世が楽しいと思うのでし
ょうが、極楽を知らんからこの世は極楽だと、結構な世
界だと思うだろうが、極楽を知った人だったらこの世は
穢土といい、極楽は浄土という。
私等は幸か不幸かそういう世界を知らないから、この世
が結構だと思えるのですね。
これもまた或る例えが別のお経に例えがありまして、今
はもう見ることが出来ませんが、昔の古い便所は下が見
えましたね。
下を見るとウジ虫がわきますね、その虫は便所の中が極
楽なんですね。外へ出したら死んでしまう、便所の中だ
から生きてられるのです。
我々がこの娑婆世界を楽しいと思うてるのは、覚った仏
様から見れば便所の中が楽しいと思ってる虫のようだと。
そういうお経があるのです。
要するに、仏教はこの世はいい所だとは思わないのです
よ。また思ったらいかんのです。
いかんというようり、いい所だと思えないようにならん
といかんのですね。
この世は無常の世界だと。
生老病死四苦八苦といろんな苦ばかりです。
楽しみというのもありますけど、それは死ぬまで続かない。
ほんの一時ですね。
次に必ず苦悩が来る。
それが解決したらまた次の苦悩が来る。
病気になって、ご祈祷も頼みますが、その病気が治る病気
ならご祈祷も頼み、医者にも頼めばいいけど、治らないと
いう病気ならご祈祷も医者も頼まず、只ひたすら念仏を称
えよ、とこういう言葉があるんです。
助かる病気か助からない病気か我々には分からないけど、
然しながら客観的に見たら、助かったところで死ぬんです
ね。
五十歩百歩という言葉がございますが、この言葉の元は、
戦争があって、そして負けて、或る人間は五十歩逃げた。
或る人間は百歩逃げた。すると五十歩逃げた人が、自分は
五十歩しか逃げてないが、あいつは百歩逃げたぞと。
あいつのほうが卑怯なんだと。
そういう言葉ですね。
五十歩も百歩も同じく逃げたんじゃないかと、逃げたのは
同じだと。こういう意味ですね。
だから生命もそうなんですね。
五十年で死ぬか、百年で死ぬか、どっちにせよ死ぬんです。
要するに五十歩百歩なんです。
難しい話ですが、後生を願うということを前提にして言う
ならば、そういう人生観になっていかなければいかんので
すね。
お念仏は、十念一念という事がありますが、その十念一念
が今息を引き取るという臨終に南無阿弥陀仏と称えたら、
一遍でも極楽へ往生出来るんだけれども、平素称えないで
いて臨終のその瞬間にというのはなかなかこうはいかんの
ですね。
兎に角病気というのがまずはある、その病気はどういう病
気が起こってくるか分からないですね。
ぽっくりと死ななくても呆けるということがありますね。
昔は呆ける前に死ぬ人が多かったようですが、今は寿命が
延びて呆ける人が多くなったようですね。
自分は呆けないと思っていても、これは医学的にいうと生
理現象ですから自分の思うようにはならんと思うのです。
こうなると、生きながら正念を失ってるんですね。
正念場といいますが、これは健康な心理状態ということで
す。
ところが「顛倒」ということがありますね。
はっきりと判断が出来なくなる。
白いものを見て黒いと思うたり、青いものを見て赤いと思
うたりね。
逆さまになってるんですね、上を下と思うたりね。
つまり正常な判断が出来ない。
それから「錯乱」。
是もよく似たものですがこれのほうがきつい。狂乱です
ね。
そして「失念」
自分の家族を見ても、何方でございますかと。
自分の妻や夫が分からない。
顛倒、錯乱、失念、これをひっくるめて呆けですね。
そうなってくると、今が臨終だということも分からない。
念仏が出来ないから極楽往生が出来ない。
極楽往生の条件は、お念仏ですからね。
その念仏称えるのは自覚が無ければ念仏は出ませんね。
その自覚は、正念でないと起ってこない。
だから呆けたら具合が悪いですね。
でも呆けたら地獄へはいかないと思うのです。悪い心
を起こしていませんからね。
臨終の心の持ち方が、善しにつけ悪しきにつけ大変な
意味を持ってくる。
臨終の一念。
作品名:和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』 作家名:みわ