小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

和尚さんの法話 『生死の里に生れ来て、生死を悟る人はなく』

INDEX|1ページ/5ページ|

次のページ
 
「霊魂は不滅である」

毎度毎度申しておりますが、宗教、この仏教は死
後の世界があるんだということが前提です。
霊魂は不滅である。
今の坊さんや仏教学者のなかにはあの世は認めな
いという人がいますが、これは大きな間違い。
兎に角、あの世はある。それが大前提です。

そうでなければ仏教の言葉、或いは仏教の儀式と
いうものは、皆あの世というものは存在するんだ
ということが前提に立ってできてる儀式であるは
ずです。
例えば、冥福。冥土の幸福ですね。
謹んでご冥福をお祈りしますと。こういう弔辞の
電報の言葉がございますね。
これは冥土の幸福を祈ります、あの世の幸せを祈
りますということです。
法事ごとは全て冥福を祈ってる幸福の実践行です
ね。
お勤めをすることによって、死者はあの世で冥福
を得られているわけです。
そういうふうに、死後の世界が存在して仏教の儀
式が成り立っている。
ですからあの世というものを否定しまいましたら、
こういう話は全く意味が無いわけです。

和尚さんの寺の宗派の本山へ行きますと、毎朝和
讃が称えられるそうで、幾日は何和讃。
幾日は何和讃。次
の日は何和讃と決まってるそうです。
弘願讃とか無常讃というように和讃の和を抜いて
何々讃というふうに言うそうです。
この弘願(ぐがん)ということは、阿弥陀様の御
本願の第十八願のことですね。
それは、南無阿弥陀仏と称えて極楽へ往生したい
と願って称えるならば、阿弥陀様が必ず迎えてや
るぞということを誓ったのが、この弘願ですね。
その中に、冒頭の一説ですが、
「生死の里に生まれきて、生死を悟る人はなく」
という言葉がございます。
これは生きることと死ぬことというんじゃないん
ですね。
仏教でこの生死(しょうじ)といいましたら、生
まれることと死ぬこと。
この生死という言葉にはいろいろな言葉が続きま
すが、生死輪廻。或いは生死無窮(むきゅう)。

無窮とは限りが無いということ。
つまり生死ということは輪廻ということですね。
生まれたり死んだり、生まれたり死んだりですか
ら。
然し生死輪廻という言葉があるわけです。
それが無窮だ、終わらない。
何時までたっても何時までたってもこの輪廻が終
わらない。
それは救われていないから。というわけですね。

これは、皆さんはどういうふうにお考えになるか、兎に
角、我々のこの霊魂は不滅ですから生まれても死んでも
生まれても死んでも滅亡しない。
生じて滅すじゃないんですね。
ただ変化しているわけです。

肉体の世界へ生まれてきたり、肉体の無い世界へ行って
みたり、また肉体を持つ世界へ生まれてきたりこれを繰
り返してきてる。
そしてこの地球とか天体とかというふうなものは、科学
者が今からどれくらい過去にできてきたというふうなこ
とを計算しますね。
そしてまたどれくらいたったら滅亡すると。
地球や天体のような物質には、始めがあって終りがある
ということですね。
時間の長短はありますけど、短いものは今消えてしまう
というものもありますけど、地球のように昔に出来てま
だ滅びてないものもある。
然しながら何時か滅びる。物質は何時か滅びる。
ところが霊魂は、何時発生したというものではないんで
すよ。
地球のように何時発生したというようなものじゃない。
我々人間のこの肉体は、始めがあって終りがある。
短くいえば生まれて死ぬまでの間で消えてしまいますが、
然しながら人類はまだまだ続いていきますね。
その人類というのは結局人間としての肉体のことですね。
科学者のいうには、まずは地球が出来て、そのときには
まだ生物というものは無かったと。

ところがアメーバとかいうようなものが発生してきて、
それがだんだん進化してきて猿になって人間になってと、
こういうふうな説明を聞きましたが、兎に角人類という
ものは進化してきたもので始めから人類が出来たんじゃ
ないと。
始めはアメーバなんだと。
眼にも見えないような小さいものなんだと。
それが生命の根本なんだと。
その生命というているのは霊魂じゃなくて物質なんです
よね。
だから科学者というのは霊魂は認めないですね。
生命というのは物質だというわけです。

それはまあ物質的生命ですけれども、霊は何時発生した
というようなものじゃないんです。
兎に角、不思議なことに始めからあるんです。
地球には発生したときがあり、だから何れ未来に於いて
滅亡するときがあるでしょうけど、この空間は何時発生
したというものじゃなくて始めからあるんですね。
空間は物質じゃないですからね。
そして何処まで行っても何処まで行ってもここで空間の
終りというのは無いわけです。
これは考えてみたら不思議ですね。

この空間は、キリスト教では天と地を作り給えといいま
すが、この天とは空間のことだろうと思うのです。
ですがそれはそんなことは有り得ないですね。
空間が作られるというようなことは絶対にあり得ない。
理論的にね。
この空間というのは始めからあるものなんです。
だから滅びない。
空間の中にある天体は消滅を繰り返しますけど、空間そ
のものはおそらくは滅びない。
滅びようがない。無限ですをはじめ。
霊魂もそうなんですよ。始めが無いんですよ。
始めからあるというのです。
だから仏教は何時からあるかというと、始めからある。

こういうのを無始以来。
始めの無い始めのことを無始以来という言い方をしま
す。
つまり永遠の過去ですね。
何処までいっても何処までいっても始めが無いという
のが永遠です。
仏教は霊魂は無始以来の過去からあるといいます。
だから私たちは、永遠の過去からある。霊魂は何時か
ら発生したというのではなく始めからある。
この空間と同じように始めからある。
そうして我々はこうして人間として存在してますが、
おそらくは極楽へ往生はしたことがない。三界解脱し
たことが無い。
解脱してたらもう阿羅漢に成ってるはずですからね。
ところが我々はまだ凡夫です。
そうすると、未来は兎も角も、過去から今日まで無始
以来、生死を無窮に繰り返してきているのです。
是からも、本願を信じなくして極楽往生出来なかった
ら生死を無窮に続けていく。
そういうことを生死無窮(しょうじむきゅう)といい
ます。
そこでその生死。「生死の里に生まれ来て」とは、人
間界のことを言ってるわけですね。
我々人間の世界は生まれたり死んだり生まれたり死ん
だり繰り返しているわけですから。
生死の里に生まれきて
生死を悟る人はなく
無常の境に住む者も
無常を知れる事ぞなき
これは詩ですが、生死の里というのはこの地球のこと
ですね。


「生死」

その地球に生まれてきても生死ということを悟る人はな
いと。
生死ということはいったいどういうことかと。
単純に考えたら、生まれることと死ぬことでしょという
ことになるのですが、仏教は生まれることと死ぬことを
只単に現象とだけではなく、無窮、永遠という時間の中
における生死ですからね。
そこのところが分からないといってるんです。

生死ということはどういうことか。
この人間界は生死の里であると。絶えず生まれては死に、