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和尚さんの法話 『仏縁に遇う』

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弟子たちは、それはもう世尊、例えになりません。
世尊が今お取りになった葉の数は数えることが出来ます。
ところがこの樹に生えている全部の葉の数は数えることが
出来ません。


迷いの世界と悟りの世界
お釈迦様は、これは私はなにを例えたかというと、私が
悟りを開いて今日まで説いたお経の数をこのひと枝に付
いてる葉の数とするならば、私がまだ説き残しておる方
は例えばこと樹に残っている葉の数と同じなんだと。
そういう例えのお経があるのです。
だから如何に仏教の内容が豊富であるかということがお
分かりになるかと思うのです。
そういうわけでお釈迦様が説かれた八万四千の法門はい
ろいろありますが、その一番大切なことは、解脱とか輪
廻とかいう言葉はよく出てきますが、その内容が問題な
んですね。
仏教では、迷いの世界と悟りの世界と。
つまり、解脱した世界と解脱していない世界と二つ説く。
我々はこれは迷いの世界。人間界というのは迷いの世界
ですね。
その迷いの世界を分けると、六つになる。
六道という言葉をご存じですね。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。
この六つが迷いの世界ですね。
それをもう少し大まかにすると、三界になるのです。
欲界、色界、無色界という迷いの世界。
欲界に含まれてる六道、色界に所属している六道、無色
界に所属してる六道とがあるのですが、色界と無色界と
は天上界なんです。
この欲界の中に六道がほとんどある。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上界の一部分。
ですから六道は全部欲界になるわけですね。
色界、無色界は天上界の更に上の天上界。
それを迷いの世界で、その世界をあっちへ生まれこっち
へ生まれとくるくると生まれたり死んだりと繰り返して、
今我々はこうして幸いというのか不幸というのか、こう
して人間界へ生まれてきてるわけです。
天上界に比べれば、非常に不幸です。
ところが、地獄や餓鬼に比べれば非常に幸せな世界です
ね。
然しながら解脱していない。
この六道三界という世界は、迷いの世界ですから、そこ
から出ると、もう輪廻を卒業するともう生まれたり死ん
だりしない。解脱してあの世へいったら永遠に死なない。
それが解脱したというのです。
三界や六道へ再び転落してこないということです。
そういう境地に到達した人を、阿羅漢というのです。
舎利弗、目連と阿弥陀経に名前が出てきますね、それが
千二百五十人あったというのですね。

少しまとめてみますと、欲界、色界、無色界。これが三
界。
三界は輪廻の世界で、生死を繰り返す。
この三界を出た人を阿羅漢。
仏教の究極の目的は成仏。仏に成るということです。
死んだ人を仏さんというのではなくて、如来様のことで
す。
この如来様に成ることが仏教の目的なんです。
みんな成れるんですと、お釈迦様がそうおっしゃってる。
皆が仏に成る可能性を持っている。それを仏性といいま
す。
人間だけじゃない、犬や猫でも虫でもです。
仏性を持っている。ただ業の深い浅いによって、人間で
あり鳥であり魚でありと差が付いたけれども、どんどん
と境地が上がっていけば、阿羅漢となり仏と成っていく。
仏教はそういう教えなんです。
みんな仏に成れる。ただ修行をするかしないだけのこと
なんです。
究極的には最後には如来に成る。
これが仏教の目的なんです。
その仏という境地は、完全無欠のお覚りを開いた境地な
んです。
阿耨多羅三藐三菩提というのが仏様の覚りを言葉で表し
たらそうなるのです。この上なき覚りという意味です。
インドの言葉をそのまま漢字にあてたんですね。
内容はどういう意味かといいますと、「無上正遍智」此
の上が無い、正しくて欠けていない。
完全無欠の智慧。
智慧は即ち覚りのことですね。
そういうお覚りの境地に成った方を如来様といいます。
それを阿耨多羅三藐三菩提。
一般的な言い方をしますと、完全無欠の人格者といいます。
だから我々は、不完全な仏なんですね。
未来は転落しないでどんどん進んでいけば如来様に成る。
だから我々は未来の仏なんですね。
お釈迦様も過去は我々と同じ凡夫だった。
だから仏様も過去は凡夫であり、我々も未来は仏であると
いえますね。
そして私たちは、生まれたときから何処かのお寺の檀家で
すね。
だから仏縁があるわけです。
それがちっとも不思議ではない、当たり前のようにお考え
でしょうけれども、「人身受け難し今既に受、仏法遇い
(聞き)難し今既に遇う(聞く)」こういう言葉がござい
ますね。
我々は親があるから生まれてきた。
人間が人間に生まれてきたのは当たり前だと。
こう思いますね。ところがそうじゃない。
輪廻しますから、人間はいつも人間にばかり生まれてくる
わけじゃない。場合によっては畜生に生まれることもあり、
畜生も人間に生まれることもある。
それはお釈迦様がおっしゃってますね。
人間はいつも人間じゃない。
場合によっては転落する。
犬も何時までも永久に犬とは限らない。


盲亀の浮木
例えば、盲導犬で人のために役立つことをするとだんだ
ん上がってくる。
そういうことで我々は幸いにして人間ですけれども、そ
の人間に成ったことを、人身受け難しといいます。
その受け難しとは、どれくらいの状態の程度なんだとい
いますと、これもいろいろとお経に出てきますね。
その一つに、「爪上の砂」というお経があります。
お釈迦様が、ガンジス河のところへお弟子さんたちと出
たんですね。
ガンジス河というのは、向こう岸が遥か彼方に見えるほ
どの大きな河ですね。
川岸には砂がたくさんあります。
その砂浜へお釈迦様が出ていって足の先で砂をすくった
んですね。すると足の爪の上に砂が乗りますね。
そこで比丘たちよ、とお釈迦様がお弟子さんたちに、私
が今この砂を足ですくって五本の指の爪の上に砂がわず
かに乗っている。
この砂の量と、このガンジス河の残ってる砂の量とどち
らが多いかといった。
するとお弟子さんが、世尊それは比べ物にになりません。
それはそうですね。
それは何を例えたかというと、この爪の上に乗った砂の
量は人間の数なんだと。
そしてこのガンジス河の砂の量というのは、それ以外の、
地獄とか餓鬼とか修羅や畜生。
畜生といたってこの地球上だけでも数えられないくらい
ありますね。
鳥にしても虫にしても、その数なんだというのです。
この世だけじゃなくてあの世にもありますね。
犬や猫の獣の霊や鳥や魚の霊があの世にありますね。
その数がガンジスの河に砂の数なんだと。
だから人間の数が如何に少ないかということの例えなん
です。
その人間に生まれてきた、人身受け難しということを言
ってるんですね。
仏法遇い難し。その仏縁ですね。
その仏縁はいったいどんな縁なのかと。どれくらいの時
間がかかっての縁なのか。

それは、「盲亀の浮木」というお経があるのですが、こ
れも例えですね。
目の見えない亀と、浮いてる木ということですが、海が
あって、この我々の地球上の海は何処かへ行けばアメリ
カに着くとか、陸があるわけです。
ところがこのお釈迦様のお説きになる海は、何処まで行