和尚さんの法話 『仏縁に遇う』
末法
因縁という言葉をよく聞かれると思うのですが、
縁無き衆生は度し難しといまして、因縁という
のは仏教の基本の教義なんですね。
そしてそれはお釈迦様が発明したというのじゃ
ないのです。
これは客観的真理なんです。
ただ科学がこれを認めてくれないのですね、現
在の状況では。
「仏出もい出ざるも法は法位に住して変易(へ
んにゃく)有る事無し」
これはお経のお言葉ですがこういう言葉がある
わけです。
つまり永遠の真理だということをいうわけです。
法は法位に住してとは、仏様のお説きになった
法というものは、法位に住してということは結
局、真理そのものである。
真理であって変化しないということです。
変易というのは変化という意味です。
易というのは変化を観るんですね。変化を判断
するのが易なんです。
今こうなってるが、これがどうなっていくのか。
つまり未来ですね。
我々は現在のことは分かってるんですが、これ
がどう変化するのか。
株が上がるのか下がるのか、為替が高くなるの
か安くなるのか、一応の推察はするけどどう変
化するのかは分からない。
それを判断するのが人間の運命ですね。
運命を観るのが易。
易とは変化という意味ですね。
変易有ることなしですから、それが変化しない。
真理が留まっておって、それがゆらゆら揺れて
それが変わっていくというものではないという
意味です。永遠の真理だと。
仏出もい出ざるも、仏様が作ったんじゃない。
客観的真理ということです。
お釈迦様がいろいろお説きになってるなかに、
正法、像法、末法と。
仏教はだんだんと廃っていくというのですね。
お釈迦様が将来を判断していってるわけです。
今もう末法に入ってだいぶになりますが、末法
に入ってきたらだんだんと仏教は廃っていくと
いうことは、信じる人が少なくなっていく。
理解する人がだんだん少なくなっていく。
だから結局聞く人も分からない。
そういう時代に入ってきてるのですからやむを
得ない。
だいたい仏教を説く人がいない。
善知識が居ない。
だから仏教を聞いて導かれるというチャンスが
非常に少なくなってくるわけです。
だからオウムのような団体へ行ってしまうのは
仕方がない。別な言い方をすればその人たちは
仏縁が非常に浅い。
仏縁が無かったということになってくるわけで
す。
私たちはこうして仏法に遇えることが出来たのですから、
そういう人たちに比べると遥かに仏縁が深かったわけです。
因縁というものが無ければ仏教では救われないといってる
のです。
縁無き衆生は度し難しですね。
だからその縁が繋がってこなければ、救われるめどが立た
ん。
いろいろな宗教がありますが、仏教でなければ救われない
とお釈迦様がおっしゃってるのです。
仏教というのは、この地球上で初めてお釈迦様が開いたと
いうのじゃないんです。
お釈迦様の以前にこういう仏様が、その前にはこういう仏
様が、その前にはこういう、と。
浜の真砂の数ほどの仏様が次から次からこの世へ出てきて、
そういうふうに永遠の過去から永遠の未来へ続いていく宗
教なんです。
例えばお経にあることなんですが、信じる人は仏縁が深い
人といえるのでしょうね。
浄土三部経というお経がありまして、それは「大無量寿経、
観無量寿経、阿弥陀経」。
この大無量寿経の或るところに説いてあるのをご紹介させ
て頂きますと、「仏阿難に告げたまわく、久遠無料不可思
議無央数劫」この数は百だ千だという数字で現わすことが
出来ない。
この劫という数字そのものが我々の使う数字に当てはまら
ない。
それに一劫、二劫という数字を付けていますけれども劫そ
のものの時間の長さというのは、以前にもお話ししました
が、百六十キロ四方の真四角のさいころのような形の石が
あると仮定して、百年に一度、天から天人が降りてきてこ
の石の上を羽衣でするすると擦って、また百年たったら降
りてきて羽衣で擦って、また百年と繰り返し、そしてこの
石が擦り減って無くなってしまった時間が一劫です。
そういう遠い遠い天文学を遥かに超越した数字をこのお経
の中には出てくるのですが、その遠い過去世に、じょうこ
う如来という仏様がこの世に出て無量の衆生を教化した。
多くの衆生を教化したんですね。
そしてお亡くなりになる。
次にこの世へお出ましになる仏様は、こうおんと名付け、
次はがっこうと名付け、次はと、五十三人の仏様の名前が
出てくる。この仏様と仏様の間が何劫もある。
今お釈迦様がお亡くなりになって約三千年。次に仏様が出
てくるのが、弥勒菩薩が如来となって出てくるのですがこ
れが五十六億七千万年。
この時間は劫という時間と比べれば非常に短いですね。
この五十六億七千万年という数字は我々の日常の観念から
いうと非常に長いですね。
ところが何劫という時間と比べると非常に短い。
そして弥勒菩薩様がこの世へ出るというのは皆さまよくご
存じだと思います。
ところがここでは、五十三人さまの名前が出てきて、そし
て五十四人目さんが、生自在如来という仏様が出て来られ
る。
その仏様が出られたときに、一人の国王が居りまして、そ
の国王が生自在如来のお説法を聞いて、忽ち国王の位を捨
て、髪をおろして出家するんですね。
この国王は過去世に於いて仏縁があり、既に菩薩なんです
ね、だからお説法を聞いたらすうっと入りますね。過去に
修行をしてあるから。
そして名前を法蔵菩薩となる。
この法蔵菩薩が阿弥陀様になるわけです。
この法蔵菩薩が如来に成るまで五劫という間、修行。
一劫という時間が先ほどの時間です、それの五劫です。
そういう仏様が出てきて、次の仏様がこうでと、そういう
スケールの大きな宗教だということです。
仏教はお釈迦様をはじめ、いったい何を説こうとしている
のか。
お釈迦様がお説きになったのも、その前の仏様がお説きに
なったのも阿弥陀様がお説きになったのも、次に弥勒菩薩
がお説きになるのも、この弥勒はお釈迦様のお弟子さんな
んですね。
釈迦様と一緒にこの世へお出ましになってお釈迦様のお説
法を聞いておられます。
お経の中にも阿難、弥勒に告げ給うと出てきます。
その弥勒菩薩が、次にこの世へ五十六億七千万年後に弥勒
如来となって出てこられる。
これはお釈迦様の予言なんですね。
その弥勒菩薩は今何処にいらっしゃるかというと、兜率天
という天上界にいらっしゃって、次にこの世へお出ましに
なる準備を最後の修行をなさってる。
仏教は、前の仏様と今の仏様と説いた内容が違うというこ
とがない。
皆同じである。
阿弥陀様の主観、お釈迦様の主観で説いてるのと違うんで
す。
だからどの仏様がお説きになっても一緒なんですね。
仏教の法は八万四千の法門とよくいいますね。
幅が広くて奥行きが深くて八万四千の法門といいますね。
非常に多いという意味ですね。
ですから、お釈迦様が或る時お弟子さん方々に、道に大き
な樹があって葉がたくさん茂っていた。
そしてそのひと枝を折って弟子に示して、お前たちにこの
樹に茂ってある葉と、私が今折ったひと枝の葉とどちらが
多いと思うか。と聞くのです。
因縁という言葉をよく聞かれると思うのですが、
縁無き衆生は度し難しといまして、因縁という
のは仏教の基本の教義なんですね。
そしてそれはお釈迦様が発明したというのじゃ
ないのです。
これは客観的真理なんです。
ただ科学がこれを認めてくれないのですね、現
在の状況では。
「仏出もい出ざるも法は法位に住して変易(へ
んにゃく)有る事無し」
これはお経のお言葉ですがこういう言葉がある
わけです。
つまり永遠の真理だということをいうわけです。
法は法位に住してとは、仏様のお説きになった
法というものは、法位に住してということは結
局、真理そのものである。
真理であって変化しないということです。
変易というのは変化という意味です。
易というのは変化を観るんですね。変化を判断
するのが易なんです。
今こうなってるが、これがどうなっていくのか。
つまり未来ですね。
我々は現在のことは分かってるんですが、これ
がどう変化するのか。
株が上がるのか下がるのか、為替が高くなるの
か安くなるのか、一応の推察はするけどどう変
化するのかは分からない。
それを判断するのが人間の運命ですね。
運命を観るのが易。
易とは変化という意味ですね。
変易有ることなしですから、それが変化しない。
真理が留まっておって、それがゆらゆら揺れて
それが変わっていくというものではないという
意味です。永遠の真理だと。
仏出もい出ざるも、仏様が作ったんじゃない。
客観的真理ということです。
お釈迦様がいろいろお説きになってるなかに、
正法、像法、末法と。
仏教はだんだんと廃っていくというのですね。
お釈迦様が将来を判断していってるわけです。
今もう末法に入ってだいぶになりますが、末法
に入ってきたらだんだんと仏教は廃っていくと
いうことは、信じる人が少なくなっていく。
理解する人がだんだん少なくなっていく。
だから結局聞く人も分からない。
そういう時代に入ってきてるのですからやむを
得ない。
だいたい仏教を説く人がいない。
善知識が居ない。
だから仏教を聞いて導かれるというチャンスが
非常に少なくなってくるわけです。
だからオウムのような団体へ行ってしまうのは
仕方がない。別な言い方をすればその人たちは
仏縁が非常に浅い。
仏縁が無かったということになってくるわけで
す。
私たちはこうして仏法に遇えることが出来たのですから、
そういう人たちに比べると遥かに仏縁が深かったわけです。
因縁というものが無ければ仏教では救われないといってる
のです。
縁無き衆生は度し難しですね。
だからその縁が繋がってこなければ、救われるめどが立た
ん。
いろいろな宗教がありますが、仏教でなければ救われない
とお釈迦様がおっしゃってるのです。
仏教というのは、この地球上で初めてお釈迦様が開いたと
いうのじゃないんです。
お釈迦様の以前にこういう仏様が、その前にはこういう仏
様が、その前にはこういう、と。
浜の真砂の数ほどの仏様が次から次からこの世へ出てきて、
そういうふうに永遠の過去から永遠の未来へ続いていく宗
教なんです。
例えばお経にあることなんですが、信じる人は仏縁が深い
人といえるのでしょうね。
浄土三部経というお経がありまして、それは「大無量寿経、
観無量寿経、阿弥陀経」。
この大無量寿経の或るところに説いてあるのをご紹介させ
て頂きますと、「仏阿難に告げたまわく、久遠無料不可思
議無央数劫」この数は百だ千だという数字で現わすことが
出来ない。
この劫という数字そのものが我々の使う数字に当てはまら
ない。
それに一劫、二劫という数字を付けていますけれども劫そ
のものの時間の長さというのは、以前にもお話ししました
が、百六十キロ四方の真四角のさいころのような形の石が
あると仮定して、百年に一度、天から天人が降りてきてこ
の石の上を羽衣でするすると擦って、また百年たったら降
りてきて羽衣で擦って、また百年と繰り返し、そしてこの
石が擦り減って無くなってしまった時間が一劫です。
そういう遠い遠い天文学を遥かに超越した数字をこのお経
の中には出てくるのですが、その遠い過去世に、じょうこ
う如来という仏様がこの世に出て無量の衆生を教化した。
多くの衆生を教化したんですね。
そしてお亡くなりになる。
次にこの世へお出ましになる仏様は、こうおんと名付け、
次はがっこうと名付け、次はと、五十三人の仏様の名前が
出てくる。この仏様と仏様の間が何劫もある。
今お釈迦様がお亡くなりになって約三千年。次に仏様が出
てくるのが、弥勒菩薩が如来となって出てくるのですがこ
れが五十六億七千万年。
この時間は劫という時間と比べれば非常に短いですね。
この五十六億七千万年という数字は我々の日常の観念から
いうと非常に長いですね。
ところが何劫という時間と比べると非常に短い。
そして弥勒菩薩様がこの世へ出るというのは皆さまよくご
存じだと思います。
ところがここでは、五十三人さまの名前が出てきて、そし
て五十四人目さんが、生自在如来という仏様が出て来られ
る。
その仏様が出られたときに、一人の国王が居りまして、そ
の国王が生自在如来のお説法を聞いて、忽ち国王の位を捨
て、髪をおろして出家するんですね。
この国王は過去世に於いて仏縁があり、既に菩薩なんです
ね、だからお説法を聞いたらすうっと入りますね。過去に
修行をしてあるから。
そして名前を法蔵菩薩となる。
この法蔵菩薩が阿弥陀様になるわけです。
この法蔵菩薩が如来に成るまで五劫という間、修行。
一劫という時間が先ほどの時間です、それの五劫です。
そういう仏様が出てきて、次の仏様がこうでと、そういう
スケールの大きな宗教だということです。
仏教はお釈迦様をはじめ、いったい何を説こうとしている
のか。
お釈迦様がお説きになったのも、その前の仏様がお説きに
なったのも阿弥陀様がお説きになったのも、次に弥勒菩薩
がお説きになるのも、この弥勒はお釈迦様のお弟子さんな
んですね。
釈迦様と一緒にこの世へお出ましになってお釈迦様のお説
法を聞いておられます。
お経の中にも阿難、弥勒に告げ給うと出てきます。
その弥勒菩薩が、次にこの世へ五十六億七千万年後に弥勒
如来となって出てこられる。
これはお釈迦様の予言なんですね。
その弥勒菩薩は今何処にいらっしゃるかというと、兜率天
という天上界にいらっしゃって、次にこの世へお出ましに
なる準備を最後の修行をなさってる。
仏教は、前の仏様と今の仏様と説いた内容が違うというこ
とがない。
皆同じである。
阿弥陀様の主観、お釈迦様の主観で説いてるのと違うんで
す。
だからどの仏様がお説きになっても一緒なんですね。
仏教の法は八万四千の法門とよくいいますね。
幅が広くて奥行きが深くて八万四千の法門といいますね。
非常に多いという意味ですね。
ですから、お釈迦様が或る時お弟子さん方々に、道に大き
な樹があって葉がたくさん茂っていた。
そしてそのひと枝を折って弟子に示して、お前たちにこの
樹に茂ってある葉と、私が今折ったひと枝の葉とどちらが
多いと思うか。と聞くのです。
作品名:和尚さんの法話 『仏縁に遇う』 作家名:みわ