戦場という名の場所
諦めてしまえば、何と心が軽くなった事だろうか。
何故あんな友人達に、必死にしがみ付いていたいたのだろうか。
過去の自分が酷く馬鹿らしく感じた。
そして中学三年生へと上がった少女は、早百合ちゃん、そして加奈ちゃん、千夏ちゃんと共にいた。
偶然にも四人は同じクラスで、何の因果か優香ちゃん達とも同じクラスだった。
けれど、もはや関係のない事だった。少女からも、優香ちゃん達からも、互いに歩み寄る事もなく、まるで初めから知らない者同士だった様な、そんな空虚感しかなかった。
ひっそりと背後に優香ちゃん達の気配を感じながらも、それでも少女は安堵の日々を送っていた。
早百合ちゃんは、他の子達とは違う。いつも少女に気を使ってくれていたし、いつも笑顔を向けてくれていた。
けれど時折思うのだ。
何故早百合ちゃんは、こんな自分に優しくしてくれて、友達として仲良くしてくれるのだろうと。
自分と一緒にいて、本当に楽しいのだろうか。本当に、友達だと思ってくれているのだろうか。
その疑問は、時折少女の心を圧迫して、早百合ちゃんと共にいる事に苛立ちさえ与えた。
そして早百合ちゃんは、時に酷く冷たく接してくる少女にさえ、優しくしてくれた。
少女は、試していたのかもしれない。早百合ちゃんの本心を。
そうでもしなければ、人を信用する事も、もう少女には出来なくなっていた。
三年生二学期。一時落ち付きを見せていた少女の学校生活は、再び波乱に満ちる事になる。
それは、何が切欠だったのか、思いだす事も困難な程、自然に始まった。
最初は加奈ちゃんや千夏からのからかいだけだった。仲のいい友達に弄られるのは別段、それ程に嫌なものではない。
けれど、その傾向が何故かクラス全体に満ちていって、話した事もない相手からもぞんざいな扱いを受ける様になった。
少し前に感じていた、桜井さんからの侮蔑と嘲り。それをクラス中から感じる様になった。
この子になら何を言っても許される。この子は皆よりも下の人間だから。
誰かにそう言われた訳ではない。けれど皆の態度がそう告げていた。
見下しの視線、嘲りの言葉。
それは少女にしてみれば、苛めと同じだった。ただ、皆はそう思ってはいない。
無意識のうちに繰り返される苛め。少女が腹を立て、言い返せば言い返すだけ、皆は喜びもっと酷い言葉で少女を罵倒する。
そうされて当たり前の人間だから、何を言っても許される相手だから。
少女を傷つけても、何の問題もない。いや、恐らく傷つけているという自覚さえ、皆にはなかった様に思う。
それは一種の集団心理だったのかもしれない。麻痺を起したクラスの中で、少女は人の悪意に晒された。
悲しみは憎悪に姿を変え、殺意さえ芽生えていく。
少女の心は疲弊しきっていた。この時に比べれば、今までの友達との確執など可愛いものでしかなかった。
こんな絶望と憎悪に満ちた世界が存在する事を、少女は初めて知った。
外へ吐き出せない苛立ち、悲しみ、絶望。それらが全てぐちゃぐちゃに混じり合って、混沌の中へ堕ちていく。
泣く事さえ出来なくて、何故こんな事になっているのかさえ分からない。
何とかこの日常から抜け出したいのに、この苦しみから逃れるには、自分が消えるしかない気がした。
誰にも言えない苦痛は、少女の精神を壊してさえいたのかもしれない。
毎日が苦痛に満ちていて、毎朝の様に白々しく世界を照らす太陽が苛立たしくもあった。
夜が明けなければいい。太陽なんて昇らなければいい。
そう思う反面、夜の暗さは恐ろしくもあった。
どこからか、何か良からぬものが近づいてきていて、気づいた時には全てを食い尽くされている。
そんな目には見えない恐怖が、常に少女の背後に張り付いていた。
歪んだままの日常に耐えきれなくなっていく。
狂ってしまえたら楽なのだろうか。何も考えられなくなってしまえば、この苦しみから解放されるのだろうか。
朝も昼も夜も、少女の脳には黒い塊が沈殿し続けて、余りの重さに上を向いて歩く事さえ出来なくなった。
不意に、少女の目に小さな硝子の破片が映った。
それは何かの瓶の、小さな破片だった。何故そこにあったのか、何故それは割れていたのか分からない。
ただその破片に、酷く魅かれた。鋭利な切っ先は、小さな刃となり反射していた。
少女はその破片を持ってみる。何の温度もない、ただの硝子。
細い切っ先が、まるで万華鏡の様に様々な景色を反射していた。
それは、何かへの抗議であったのか、それとも誰かに向けたSOSだったのか。
少女はぼんやりとした瞳を覗かせたまま、握ったその破片の切っ先を、ひたりと手の甲へ宛がってみる。
徐々に力の籠っていく指先。それに比例して皮膚の中へ沈み込んでいく切っ先。
限界を超えた皮膚は裂け、じわりと小さな血の玉が浮かび上がる。
不思議と、痛みはそれ程に感じなかった。いや、痛みよりも強く少女を浸していたのは、恍惚とした快楽だった。
二センチほどの傷跡が、少女の手に浮かび上がる。小さな傷跡でしかないそれは、それでも確実に少女へ解放の喜びを与えた。
ふわりと、胃の中が温かくなる。頭の芯がぼうっとして、意識が遠い彼方へ飛んでいく気がした。
そして少女は、何度も何度も自身の手の甲へ傷跡を刻んだ。
それは吐き出せない憤り、憎悪、悲壮、その全てに対する抵抗でもあった。
歪んだ心は、時折酷い破壊衝動さえつれてきて、それでも外へ出せない苦しみは、内へ内へと向かい、少女の手は、いつしか傷だらけになった。
少女の苦痛に気付く者はいない。もし一人でも、少女の異変に気付いてくれていれば、醜い自傷を残す事もなかったのかもしれない。
だが、この時の少女には、その行為だけが世界に対する反発だった。
手の甲に出来た小さな切り傷。一つ二つならただの怪我だろうと認識された筈だった。
けれど少女の手の甲の、隙間という隙間全てに傷は刻まれていて、いつの間にか切る場所さえなくなっていた。
他にも、切れる場所を探さなければ。もっと切らなければ。
いつしかそれは強迫観念の様にもなり、唯一の救いでもあり、抜け出せない負の螺旋に飲み込まれていた。
その頃になって、ようやく異変に気付きだした周りの存在に、少女は焦った。
母に聞かれた。
まさか自分で切ったんじゃないよね?
少女は答えなかった。答えなかったからこそ、それは肯定となり母に伝わる。
そうなってしまえば二度とこんな真似をしてはいけないのだと??正されてしまう。少女の逃げ場は封鎖される。
けれどそんな事よりも、少女はその時の母の顔を見た刹那、自らの愚かしい真似を恥じた。
母は、深く傷ついた顔をしていたから。
少女の行為を、酷く悲しい事だと言う様に、母は少女の手に薬を塗る。
子供にとって、母の存在の偉大さを思い知った気がした。
母が傷つく事はしたくないと思った。
そして少女の小さなSOSと世界への反発は終わりを告げる。
苦痛だけに染められた中学三年生の二学期は、呆気なく幕を閉じ、直ぐに三学期へと突入する。