戦場という名の場所
少女は心を無にしていた。教師の言葉は覚えていない。
ただ事務的に頷く事を繰り返して、理解したふりをしただけだった。
人には、人それぞれの概念があり、思想がある。少女の一種歪なその概念は、既に少女の中で深く構成されてしまった核でもあった。
もし、もう少し早くに教師の言葉を聞いていれば、結果は違ったのかもしれない。
所詮は、あとの祭りでしかなかったけれど。
定期的に繰り返される放課後の話し合い。既に恒例となったその会は、この日に限り少し形が違っていた。
月に一、二度開かれる会には、全てのクラスメイトが参加している訳ではない。その時その時、参加出来る人だけが参加するという強制的ではない会でもあった。
この日、話し合いの場に参加した人数はそれ程多くなかった。
十数名が集まった放課後の教室で、この日議題にされたのは、苛めについてだった。
苛めと言っても、その形には様々なものがある。寄ってたかって一人を虐めるという悪質なもの、一対一で行われる人目につかないもの。そして、加害者が苛めをしているという意識がないもの。
教師はまずそれを語った。そしてこのクラスには、本当に苛めがないのか、その追及をした。
この会では、ただ先生が終始語らうというものではなく、生徒に発言をさせ、その心の内を吐き出させるという類のものだった様に思う。
そして生徒達は罪悪を感じながらも、ポツポツと語らいだす。
今、この場にはいない人物の事、直ぐ傍にいる相手の事。一触即発、とまではいかないが重苦しい雰囲気が薄暗い教室の中に沈殿していく様だった。
あの時、自分は確かに傷ついた。その時の事を生徒達は語らいながらも、何故か拭いきれない罪悪感が伴うのは、それが陰口にも似ていたからかもしれない。
少女は、優香ちゃんとの事を言うつもりはなかった。
もし、この場でこれまでの事を口にすれば、きっと全てのものが崩れ去る。
世界が変わる時、それは酷く恐ろしく、先の見えない未来に希望さえ持つ事が出来ない。
淡々と語られていく少年少女達の心の内。その内の一人の少女が、不意に優香ちゃんの名を口にした。
「私は、優香ちゃんに傷つく事を言われました」
どくりと、少女の心臓が戦慄いた。その時になって初めて、少女は優香ちゃんの被害者が自分一人ではなかった事を知った。
抑揚なく語られる女の子の言葉には、やはり罪悪が混じっていた。時折言葉に詰まりながら、それでも女の子は言葉を続ける。
少女の横には、優香ちゃんがいた。
優香ちゃんはただ静かに女の子の口から語られる言葉と出来事を聞いていたけれど、ついには顔を埋め泣きだしてしまった。
啜り泣く優香ちゃんを置き去りに、女の子の告白は続く。
慰める者は、誰もいなかった。否、この場合、慰める義務があったとすればそれは恐らく、少女であった。
啜り泣き続ける優香ちゃんに、どうしたものかと困惑していた時だ。不意に、教師が少女の名を呼んだ。
「言いたい事、ある?」
「……」
少女は、無言で首を振った。言えない、言ってはいけない。背後から迫りくる強迫観念。どくどくと脈を刻むこめかみ。
「本当に?」
その言葉に、少女は眩暈がする程の衝撃に襲われた。
知っている、先生は知っているんだ。
自分と優香ちゃんの歪な関係を。
それはきっと、傍からでも分かる程のものであったのだろう。
そして先生は、危惧している。この二人の関係は、恐らく取り返しのつかない事態に陥る事を。
もし、この時、優香ちゃんが泣いていなかったら、少女は口にしていただろうか。
もし、優香ちゃんがこの場にいなかったら、二人の関係を吐露しただろうか。
答えは、否だ。
少女は、決心出来ないでいる。優香ちゃんとの決別を。
「――言いなさい」
「!」
押し黙る少女に、教師は告げた。それを意外に思った。
先生は余り生徒にそういった口調で問う事はなかったからだ。
ここで少女が優香ちゃんとの関係を口にしなければ、きっと長い時間、二人の関係は歪なままである事に、先生は気付いていたのかもしれない。
「……」
それでも少女は口を閉ざす。嫌な汗に全身が濡れていた。酷い葛藤が全身を駆け巡る。
言えない、けれど、言ってしまいたい。その先に何が待ち構えていても。
酷く長い時間だった気がする。けれど実際はほんの数分だったのだろう。
黙秘を守る少女に、先に折れたのは先生だった。
横で泣き続ける優香ちゃん。重い緊張感、吐き出せない心の叫び。
少女は、優香ちゃんとの関係を維持する事を選んだ。
少女には、泣いている優香ちゃんを更に追い詰める事も出来ない。
それは優しさに酷似した偽善だったのか、或いは保身であったのか。この時の少女にはそれを判断する事は出来なかった。
その日から、何かが変わった訳ではない。ただ、先生の、少女と優香ちゃん、二人に対する監視は強まっていた様に思う。
先生は優香ちゃんの悪意に気付いていた。それに晒される少女にも気付いていた。
けれど本人達が何も語らない以上、先生に出来る事は傍から監視し見守り続ける事だけだったのだろう。
六年生になって数カ月が過ぎた頃、少女は夕暮れの中、優香ちゃんと共にいた。
夏が終わる物悲しい秋の始まり。かさかさに乾いた風があの草原を撫でている。
青い草木が、赤い禍々しいまでの夕日に照らされ、眩しく反射していた。
風の音しか存在しないそこは、少女の心休まる場所でもある。
そして、優香ちゃんとの二人の遊び場でもあった。
優香ちゃんは、度々少女を遊びへと誘った。その真意は分からない。
ただ、二人きりでいる時は、優香ちゃんは敵意を剥き出しにしない。
少女は思う。優香ちゃんは、自分を嫌いなのだろうか。それとも、憎んでいるのだろうか。
ならば何故、二人きりで遊ぶのだろう。何故優香ちゃんは少女から離れないのだろう。
二人で居る時、少女は決まって同じ疑問を脳裏で繰り返していた。
「私ね……」
不意に口を開いた優香ちゃんの声は、いつかの日に聞いた、小夜ちゃんのモノと似ていた気がした。
「私立の中学に行くんだ」
ただ違ったのは、優香ちゃんはそれを酷く悲観していたと言う事。
「そうなの?」
少女は歓喜していた。
私立に通う。それは優香ちゃんとの関係を終わらせる事の出来る事実だった。
同じ中学校に通う事はないという、まごう事なき真実だ。
少女は疲れていた。優香ちゃんという存在に振り回される事に。何を考えているのか微塵も理解出来ない相手と共に居る事に。
これで終わる。酷く長い様に感じていた二年間が、ようやく終わりを告げようとしている。
正直に言えば、小学五、六年の間、少女に心休まる時間など存在しなかった。
いつも優香ちゃんの気配を感じていたし、今度は何をされるのか常に怯えていた。
安堵、歓喜、脱力。これでもう、少女を脅かす存在は居なくなる。
卒業まであと数カ月。それを耐えれば後はどうとでもなる。
優香ちゃんから私立へと進学する話しを聞いた数日後には、周知の事となっていた。
優香ちゃんの存在を脅威に思っていた友達は、他にも数人いた。