戦場という名の場所
少女は、次々と浮かぶ疑問を苦虫を噛み潰すみたいに飲み込んだ。
きっと、何も聞いてはいけない。何故かそう思ったから。
真上を流れていく赤い雲が、何故か酷く緩慢に見えて、時間の感覚が酷く曖昧に感じた。
鼻孔を擽る青い草木の香りを肺の深くにまで飲み込む様に吸いこんで、少女はこの不可思議な感覚の中、そっと息を吐きだした。
それから数カ月後、春休みに入るのと同時、小夜ちゃんは引っ越していった。
場所は然程遠い所ではなかったが、それでも転校は余儀なくされて、小夜ちゃんは一番の友達であった弥生ちゃんに別れを告げた。
何故か、少女は小夜ちゃんの中から悲壮を見つけ出す事はなかった。
小夜ちゃんの顔には、いっそ清々しい程の表情が浮かんでいる様にも見えて、少女にはそれがまた不思議に思えた。
長い間、子供時代を共にした友人の元を去るというのに、何故小夜ちゃんは憂いも悲壮も覗かせなかったのだろう。
それはもしかしたら、子供ながらの虚勢だったのかもしれないし、新たな場所へと旅立つ事への高揚が、悲壮を凌駕していたのかもしれない。
少女は、かつて自分が生まれた土地を離れた時の事を思い出す。
転校という言葉に、少女もまた悲しみを覚えはしなかった。
失望も、憂いもなく、ただ漠然的な感情だけがあった。
あれは、何故だったのだろう。転校という言葉に付いて回る人との別れ。何故その事実に喪失感さえ覚えなかったのか。
少女が感じ得なかった悲しみ、それは小夜ちゃんもまた同じだったのかもしれない。
小学五年生の春。校庭に張り出される全クラスメイトの名簿。
少女はずっと三組だった。五年生に上がったクラスも同じく三組で、その中に見知った名前を見つけた。
「やっと同じクラスになれたね!」
少女と同じくすぐ横でクラス名簿に目を通していた優香ちゃんに、少女は無邪気にそう告げた。
「……」
けれど何故か、優香ちゃんは頷きもせず、相槌も返さず、そのまま踵を返し少女の横を去っていった。
「?」
何となく、優香ちゃんは怒っていた様に思う。けれどその理由はよく分からなかった。
今思えば、恐らく親しい友達とクラスが離れてしまっただとか、そういった理由だった様に思う。
けれど少女は、この時の優香ちゃんの態度に、何処となく五年生という新しい学級に嫌な胸騒ぎを覚えてもいた。
弥生ちゃん、そして美幸ちゃんとも相変わらず同じクラスで、少女はほっと胸をなで下ろしていた。
この年齢になってくると、徐々に新たな友達を作る事に身構えてしまう節があったのだ。
今年からは優香ちゃんもいる。親しい友達が集まった、楽しい筈の小学高学年での歳月は、少女にとって忘れ難い思い出となった。
不意に訪れた違和は、新たなクラスに足を踏み入れてから直ぐに訪れた。
優香ちゃんの変貌。
まるで昨日までの友人が、全く知らない別人へと変貌してしまったみたいだった。
それを受け入れるまでに、少女はかなりの時間を費やした。
優香ちゃんは、常に苛立ちと嫌悪を剥き出しにして少女に接する様になっていた。
少女の何もかもが気に入らない。そう言いたげな冷たい瞳は、酷く恐ろしく、また惨酷に少女の目に映っていた。
優香ちゃんの変貌の理由を、少女はどうしても見いだせずにいた。
心当たりはなかった。もしかしたら何かしらの切欠はあったのかもしれない。
何か、優香ちゃんを深く傷つける様な事をしていたのかもしれない。
けれど優香ちゃんの性格から、何かをされたり言われたりすれば、直ぐにそれは表に出るし、憤りを隠したりするタイプではない。
それとも、憤りさえ表現出来ない程の傷を、少女は知らず知らずの内に優香ちゃんの中に刻んでしまったのだろうか。
これは喧嘩ではない。喧嘩にもならない。ただ悪化していく関係は、小夜ちゃんの時よりも酷く、少女の手には負えないものになっていた。
優香ちゃんの怒りのスイッチは、よく分からなかった。
優香ちゃんが弥生ちゃんや美幸ちゃんと話している時、そこに少女が入るとあからさまに不機嫌になる、と言う事はしばしばあったが、それ以外にも優香ちゃんの苛立ちは度々上昇する様だった。
ある時は、優香ちゃんの中で押さえきれない怒りが蓄積され、それが弾けたみたいに少女へ嫌がらせをする事もあった。
家の近い弥生ちゃんと優香ちゃん、そして少女はいつも三人で下校する。
教室から下駄箱までを移動して、三人一緒に上履きから靴へと履き替える。
その時だ、少し前を歩く優香ちゃんが、故意に少女の靴を下駄箱から落とした。
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。それは余りに陰湿な行為に見えて、少女は何も言えなかった。
ただ、目の前で落ちていった自分の靴が、放りだされた事にも気付かずに地べたに転がるその様が、酷く哀れに思えた。
腹の底がぐっと重くなる様な感覚。黒い黒い塊が、胃の中に溜まっていく。
怒りと言うよりも、驚きと狼狽の方が勝っていた様に思う。
何故、優香ちゃんはこれ程に少女を目の仇にするのか、少女には分からない。分からないからこそ、恐ろしくもあった。
優香ちゃんは事ある毎に少女へ嫌がらせを繰り返した。けれど同時に、何故か酷く優しく少女へ接する時があった。
その落差に、少女は困惑する。一体どちらが本当の、自分にとっての優香ちゃんなのだろう。
きっとどちらも本当の優香ちゃんで、どちらの優香ちゃんも偽りではない。
だからこそ、少女は優香ちゃんとの接し方に困惑する。
付き離せばいいのか、このまま友達を続ければいいのか。
友達とは、一体どこまでを友達と呼ぶのだろうか。
小学高学年でのクラスは、良くも悪くもなかった様に思う。
担任の先生は、よく出来た人であったとは思う。差別する事もなく、クラスの問題にも真摯に立ち向かう。
だからこそ、クラスメイトの友人関係にも、ちゃんと目を光らせていた。
先生は、時折放課後に話し合いの場を設けていた。
それはクラスで問題が起きない様、定期的に皆で意見交換をする場所でもあった。
最近は誰と誰が喧嘩しただとか、誰と誰が仲が悪いだとか。
その度に先生は同じ言葉を口にする。
人は、誰とでも仲良くなる事が出来るのだと。
その言葉は素晴らしいと思う。けれど同時、少女の中で反骨的な思想が浮かびあがった。
誰とでも仲良くなれるなど、詭弁だ。
その概念は間違いではないのかもしれない。けれど、積み重ねられた溝と確執は、どうしたら取り払う事が出来るというのか。
心が拒絶を示すのだ。この子とは住む世界が違う、近づいてはいけない。言葉を交わせば交わすだけ、互いの心を傷つける。
目と目が合っただけで身体が竦み、逃げ出したくなる相手。
そんな相手とどうやって仲良くなる? そこには相当の我慢と忍耐と、鷹揚がなければ決して慣れ合う事の出来ない壁があると言うのに。
少女は、ある時の作文でその想いを綴った。それは慣れ合う事の出来ない相手と友達になるなど、苦痛でしかなく、とてもじゃないが出来るものではないと。
後日、少女は教師に呼び出され、刻々と人との関わり合いや人間同士の付き合い、可能性を教え込まれた。