戦場という名の場所
正確に言えば、人と争うのはそれなりのエネルギーが必要だし、強靭な精神力さえ必要となる。
大雑把にいえば面倒くさいと思う類のモノの筈だったが、少女は現状、小夜ちゃんとの冷戦を続けている。
低学年の頃から比べれば、少しの落ち付きはあった。他の子達の介入もあったし、三人だけという時間が減っていた事もその要因だった。
だからこそ、小学校での六年間の内、中学年の時期は一番少女にとって心安らぐ時期でもあった。
勿論、それなりの問題はあった。誰と誰が喧嘩しただとか、あの子の悪口を聞いたとか、小さないざこざは存在していたけれど、実際に自分が関係していない事柄に対して、人は過度に反応する事はない。
所詮は他人事、そう片付けてしまえるのだ。
そんな平穏と僅かな漣のある日常の中、ある下校時の時、小夜ちゃんに言われた事があった。
「ねえ、あのドラマ見てる?」
「うん、見てるよー」
それは小夜ちゃんが弥生ちゃんに振った話しのタネだった。
「私も見てるよ」
少女もそれに加わろうとした。事実、少女もそのドラマを見ていたからだ。
しかしそれが小夜ちゃんの怒りを買ったらしかった。小夜ちゃんにしてみれば、弥生ちゃんと二人で話す事の出来る内容が欲しいのだ。
「本当に見てるの?」
未だ夕暮れとは言い難い明るい時間だった。真っ直ぐに伸びた道を、三人で並んで歩く。
暑くも寒くもない時期で、恐らく立秋頃の事だったと思う。
天気もよく、乾いた風が心地よく世界を流れていく。
けれどこの時、少女は微かに悟っていた。小夜ちゃんが攻撃体制に入っている事を。
「うん、毎週見てるよ」
「本当に?」
何故か小夜ちゃんは食い下がった。少女の言葉を明らかに信じていない様子だった。
「見てるってば」
同じく少女もムキなる。本当の事を嘘だと罵られるのは子供心にも許せない事だったから。
「……」
僅かな沈黙、相手の出方を見る注意深くも思慮深い寡黙な時間だった。
「……あっそ」
先に口を開いたのは小夜ちゃんだった。ぶっきら棒に言い捨てられた言葉ではあったが、少女もまたそれっきりその話題を口にする事はしなかった。
しかし再び、小夜ちゃんは唐突に口を開いた。
「あのドラマの主人公って、ニュースのアナウンサーだよね」
「うん」
反射的に返事を返して直ぐだった。違う、あのドラマの主人公は、天気キャスターだった。
「やっぱり見てないんだ!」
間髪いれずに声を荒げる小夜ちゃんに、少女は言葉を失った。
まさかこんな真似をするなど思いもしなかったし、それ以上に、小夜ちゃんの卑怯な物言いに怒りを通り越して唖然としてしまったのだ。
冷たい汗と凍りつく様な焦燥と緊迫。戦慄きそうになる唇がそれでも何とか言葉を綴ろうとする。
「ち、違うよ……間違えただけ」
「嘘だ、絶対見てないんだー」
こうなってしまえばもはや何を言っても後の祭りだった。
少女も油断はしていた。けれど小夜ちゃんのそのやり口に言い様のない憎悪を覚えていた。
この時から、更に小夜ちゃんとの確執は酷さを増して、いがみ合いはもっと深刻な状況へと転げ落ちていった。
四年生に上がると、小夜ちゃんと遊ぶ事は殆どなくなった。
所詮、相容れない相手であったのだと、諦観と僅かな安堵、そして言い様のない歯がゆさが少女の中に残った。
それは、四年生もあと数日で終わるという晩冬の時期だった。
少女は、近所の数人の友達と広大な面積を持つ草原で遊んでいた。
家の目の前にそびえる草野原は、どこまでも遠く彼方へ続いている様にも見える。
ここへ越して来てから、少女は幾度もその草原へ足を運んできた。
時には見知らぬ子供と遊んだ事もあった。不思議と、そういった子には再度会う機会は滅多になく、そのまま数年が経つ事もある。
広い広い、どこまでも続く草原。僅かに小高くなった小さな丘。その周りには背の低い木々が折り重なって生えている。
赤い日差しが世界を焼く夕暮れの時、少女達はかくれんぼをしていた。誰が鬼だったのかは覚えていない。
ただ、少女は何故かこの時、小夜ちゃんと一緒にいた。
それは偶然だったのか必然だったのか、はたまた謀りであったのか。
広い草原の中、たったの二人、鬼から姿を隠しながら草木の隙間を歩いて行く。
赤い木漏れ日、足に絡まる長い雑草。遠くの方から、夜の気配が少しずつ近づいてくる。
乾いた風が草原を撫で、波打つ海原の様にも見えた。
傍からは見えにくい、少し抉れた場所、木の影に隠れる様にして、少女と小夜ちゃんは身体を丸め座り込む。
鬼の姿を遠くから確認しながらも、二人は息を殺しながら身を潜めた。
「……あのね」
不意に口を開いたのは小夜ちゃんだった。それは何となく懐かしくも感じる程に久々に聞いた小夜ちゃんの声だった。
「何?」
この時、珍しく小夜ちゃんから嫌なものを感じなかった。いつも、常に小夜ちゃんから向けられていた攻撃的で、威圧的な拒絶感。それが何故かこの瞬間だけは感じ取る事が出来なかった。
だからこそ、少女は訝しんだ。それはまるで、普通の友人に親しげに声を掛けるみたいな、そんな響きさえ孕んでいたから。
「……私、転校するんだ」
「――え?」
それは、思ってもみなかった言葉だった。数年にも及ぶ攻防を繰り返していた相手、その小夜ちゃんがこの土地を去る。
「……いつ?」
「五年生になったら」
五年生、もう数カ月もない。
どこか不可思議な、遠くの方から聞こえてくる様な声でもあった。
小夜ちゃんの目は、遠い彼方を見詰めていて、それは鬼の姿を追い掛けていたのか、はたまた何も見てはいなかったのか、少女に判断する事は出来なかった。
ただ、何も読み取る事の出来ない硝子玉の様な瞳を、少女は現実感のない曖昧な感覚の中で見詰めていた。
何故、小夜ちゃんは少女にこんな話しをしたのだろう。
少女の中には次々と理解不能な疑問符が浮かび上がる。
小夜ちゃんとは、決して仲のいい友達ではなかった。それが今、まるで酷く親しい、長い歳月を共にした友人の様にも感じるのは何故だろう。
「……まだ、誰にも言ってないから、内緒にしておいてね」
「…………うん」
再び浮かび上がる疑問。誰にも言っていない、二人の秘密。
それに酷い違和を覚えた。秘密事を共有する。それは信頼出来る相手にのみ語られる類のものの筈だ。
少なくとも、少女は自分の秘密を誰かれ構わずに語る様な事はしない。
それはもっとも仲の良い、自分の秘密を知って欲しいと思う相手にのみ語る。
ならば、小夜ちゃんは敵である筈の少女にそれを告げる事で、そこから何かを伝えようとしたのだろうか。
これは少女に知ってほしい秘密だった。ならばそれには何かもっと深く全く別の意味が含まれているのだろうか。
秘密事に対する価値観は、人によって異なるものだと思う。
否、というよりはその秘密の重大さによるかもしれない。
とにかく、小夜ちゃんの語るその秘密は、小夜ちゃんにとってかなり大きな、トップシークレットとも言える類のモノの様に感じた。
その秘密を少女に語る事で、小夜ちゃんの中で何かを消化した事になるのだろうか。