溶けるまでが氷
「いやまあ……気には なってるよ」
「そう」
「あれ? それだけ?」
マスターは、さきほどのグラスを手に取ると、時々俺を見て口元を緩めるだけだった。
それから、何度か店に訪れたが、彼女には会えなかった。
「マスター、此処の女(ひと)は、最近 来ないの?」
「いや、ろはさんとは擦れ違いかな。なにかを察知してるのかもな。ははは」
「なんだよ、それ。なんか俺が……」
そんな時、入り口のドアについているベルが、静かに客の訪れを知らせた。
いつもドアの開閉でチャリーンと響く音色が、音をひそめて開き、静かに閉まったのだ。
噂をすればなんとやら、言葉どおりのタイミングで 彼女が店に訪れた。
「いらっしゃい」
「こんばんは。此処いいですか?」
「どうぞ」
「カシスオレンジをください」
「はい」
以前と同じ会話が為されたことに 俺はくすりと笑った。
席についた彼女の視線が、俺に向いたので、バツが悪く他所をみた。
「こんばんは。またお会いしましたね。こちらには よくいらっしゃるんですか?」
「え、まあ。常連っていうか」
「男の方は、そういう場所があっていいですね」
その言葉遣いやテンポに俺は、初めて触れたように感じた。
俺が、何となくしゃべりかけてみると、応えて言葉を返してくれる。
明るく親しみやすくていい女性だな、と好感さえ持て、俺の話は止まらなくなった。
「俺に 一杯おごらせてよ」
「いえ、あまり強くないですから」
「マスター、いいでしょ?」何故かマスターに許可を求めている自分が可笑しかった。
「無理に付き合わなくてもいいですからね」
彼女は、「はい」と微笑むと、グラスに残っていたまだ色のあるカクテルを飲み干した。
「なんだ。いけるんじゃん。あ、違うのにしますか? 同じのがいいかな?」
俺と彼女が、決めかねているとカウンター越しにマスターが言った。
「はい。これは如何でしょう?」
マスターが、彼女の前に置いたグラスには、珈琲色と白の交じり合った飲み物のグラスの淵に 真っ赤な苺が飾ってあった。