猫が導く恋
「聞いてたよ。君も俺と同じゲイだ。でも、だからって俺を好きになってくれとは言わない」
「僕は、あなたが好きです。だから怖かったんです。どうして分かってくれないんですか!」
「タザキくん……」
弘は、首を振った。
「弘です。田崎弘。ちゃんと名前で呼んで。表札を見たでしょう?」
「弘くん。ちょっと落ち着きなさい」
「僕は落ち着いてますっ!」
叫んでしまってから、弘は矢田部の目に浮かぶ優しい光に気づいた。
「……ごめんなさい」
「いや。いいんだ。君はどうやら、仕事で疲れているみたいだ。一晩ぐっすり眠って、それからもう一度会おう」
矢田部はそう言うと、マグカップを持ち上げてから、それが空であることに気がついたようだった。
「お代わり、お淹れしましょうか?」
「いや。今夜はこれで帰るよ。おやすみ。また明日」
「はい……」
弘は、立ち上がった矢田部を玄関まで見送った。スーツ姿で革靴を履いた矢田部は、優しく微笑んでくれた。
「美味しいコーヒーをごちそうさま」
「いえ。おやすみなさい」
頭を下げた弘の目の前で、ドアが閉まった。弘はリビングに引き返してマグカップを洗い、冷めたコーヒーサーバーをそのまま冷蔵庫にしまった。
確かに自分は、脱稿した後の疲れと、矢田部に早く打ち明けなければという焦りで、冷静さを欠いていたかもしれない、と思う。そんな自分の心理状態を見抜いて、優しくなだめてくれた矢田部は、やはり大人だ。かなわない。
(でも好き。やっぱり僕は「あの人」が好き)
窓から見かけたり、ゴミステーションですれ違うだけでときめいていた頃から、本当は恋に落ちていたのだと思う。ただ、心にぱっくりと口を開いた傷が、それにストップをかけていたのだ。
弘は仕事場の資料用の本棚に、もう一度写真立てをしまうと、PCを起ち上げた。阪元からはまだメールは届いていない。ブラウザを開いてtwitterにログインすると、矢田部の呟きが目に飛び込んできた。
【やった! この世の春が訪れそうです。もう秋も近いですが。浮かれきって風呂で溺れないようにします。おやすみなさい】
弘は呆気に取られた。こんな子どもっぽい一面も持っているのかと思うと、自然と笑みがこぼれた。
【こんばんは。書き上げた原稿の修正が終わりました。これが第二稿になります。本になるまで、もうしばらくお待ちください】
そう書き込んでツイートボタンをクリックすると、あとはブログを確認しただけでPCを閉じてリビングに行き、ダンジョンで迷ったままになっていたゲームを再開する。壁の一部を押してみると、秘密の小部屋が開き、そこに宝箱があった。
(僕も見つけた。小さな宝箱。矢田部さんのこと、もっと知りたい)
弘は幸せな気持ちで、ゲームを続けた。
翌日、いつも通りアラームで目を覚ました弘は、まずゆっくりと風呂に入り、食事を摂ってコーヒーを淹れた後、洗濯機を回しながら家中の掃除をした。ベッドのシーツまで洗ってベランダいっぱいに洗濯物を干すと、バスに乗ってスーパーへ行き、両腕いっぱいに買い物をした。
夏休みが終わっても、まだ厳しい残暑は続いていた。帰った弘は買ったものを整理してからシャワーを浴び直し、鍋いっぱいにカレーを作った。カレー用の牛肉を、赤ワインと水でじっくり煮込んでから、辛さの違うルーを三種類使って、仕上げにチョコレートを放り込む。
炊飯器もセットしてタイマーをかけると、取り込んだ洗濯物をしまって、シーツにはアイロンをかけてベッドメイクした。
少しゲームをやっていると炊飯器がアラームを鳴らしたので、ほぐしておいてから、カレーを温め直した。柔らかくなった肉にカレーがしみ込み、満足できる仕上がりだった。野菜スティックをかじりながら、レモンスカッシュで割ったウイスキーを飲んでいると、時計の針が十時を指した。
慌てて残りを飲み干した弘は、シンクにグラスを置いたまま、キャットフードの袋と皿を抱えて飛び出した。
広場に着くと、まだ矢田部は来ていなかった。群がってくる猫たちに餌をやって、ベンチに座っていると、こんばんは、弘くん、と声をかけられた。
「こんばんは」
「君は懐いてくれたけど、猫たちはだめだなあ」
相変わらず散って行く猫たちに、ため息をついてそう言うと、矢田部は弘の隣に腰を下ろし、一匹だけ残って悠然と餌を食べている黒猫を眺めながら、タバコを吸った。
「今夜は落ち着いてるみたいだね」
「昨夜はすみませんでした」
「いいんだよ。それで今日は何をしてたの?」
弘が一日の報告をすると、矢田部は、働き者なんだね、と感心したように呟いた。
「矢田部さんは何をなさってたんですか?」
「俺は怠け者だからね。ベッドで一日中本を読んでいた」
矢田部がそう言った時、餌を食べ終えた黒猫が、大きく伸びをして、立ち去った。そこで初めて、紙皿と猫缶を取り出した矢田部は、それを植え込みの陰に置いた。弘も、その傍に残った餌をまいて、矢田部を見上げた。
「まだ暑いですから、僕の部屋にいらっしゃいませんか」
「ありがとう。お邪魔させてもらうよ」
リビングに矢田部をあげた弘は、昼間起きた時に淹れて冷蔵庫に入れておいたコーヒーを、グラスに注いで出した。
「牛乳ならありますけど、ガムシロップはないんです」
「いや。俺もブラックで構わないよ」
ソファで寛ぐ矢田部に、弘はそっともたれてみた。肩の高さがちょうどいい。
「灰皿がなくてごめんなさい」
「吸ってもいいなら、携帯灰皿に入れるよ」
「どうぞ」
弘の頭を肩に乗せたまま、矢田部はタバコを吸い、アイスコーヒーを飲んだ。
飲まずに放置された弘のグラスの氷が溶けて、カラン、と音を立てた時、矢田部の指が、弘の頬に触れた。素直に目を閉じると、口づけが降ってきた。軽く唇を触れ合わせただけで離れて行ったが、弘は幸せを感じていた。
「矢田部さん。今のところ、お家賃いくら払ってらっしゃるんですか?」
「ん? 九万だったかな。新築に近くて1DKだからね」
「ここに引っ越してらっしゃいませんか?」
矢田部は、携帯灰皿の中に灰を落として、考え込んでいるようだった。
「彼には手紙を書いて、送金を止めてもらいます。その代り、矢田部さんがローンの半額、八万を払ってください」
「俺のための部屋はあるのかい?」
「彼が使っていた八畳が、空っぽのまま残ってます。それとダブルベッドの寝室」
矢田部は、驚いたように肩を揺らした。弘は頭を上げて、矢田部を見上げた。
「どうしたんですか?」
「身体の関係はなかったんだろう?」
「そうです。ただ一緒に眠っただけです。といってもお互い仕事が不規則でしたし、そんなことは数えるほどしかありませんでしたけど」
矢田部は唸った。
「俺と一緒に暮らし始めたら、それじゃ済まなくなることは、分かってるのかい?」
「分かってます。それでも一緒にいたいんです。だめですか?」
「……少し、考えさせてくれないか」
弘は微笑んだ。
「どうぞ。僕にあるのは時間だけですから、いつまででも待ちます」
弘はようやくアイスコーヒーに口をつけた。氷が溶けて薄まっていたけれど、気にはならなかった。