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猫が導く恋

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「焦るばっかりでいっそもう諦めようかと思う度に、狙ったように君はゴミ出しに来たり、ベランダに洗濯物を干しに出てきたりして、俺はからかわれてるんじゃないかと思った。そんな筈はないのにね」
 矢田部はビールを飲み、タバコを吸って、苦く笑った。
「だって君はごく普通に見えた。男に想われてるなんて知ったら逃げられるだろうな、と思ったよ」
 弘は、手のひらの中で温くなっていくビールに口をつけることもできずに、矢田部の告白を聞いていた。
「でもあの晩、会社の近くの定食屋がつぶれて、仕方なくコンビニに寄り道をして見かけた君は、ひどく寂しそうに見えた。泣いてるんじゃないかと思うくらいに」
「あの晩……?」
「君に初めて声をかけた。こんばんは、って」
 コーラとカップラーメンの入ったコンビニの袋を下げた矢田部を思い出した。
「どうして泣いてるの? って訊こうと思ったら、振り返った君はただ寂しそうなだけで、泣いてなかった」
 あの晩、弘は、もういい加減、矢島のことは忘れなきゃいけないと、自分に言い聞かせていたのだ。二年も経つのに、空っぽの部屋を掃除する度、リビングのダイニングボードの上の写真を見る度、ぐずぐずと泣いてしまう自分に。
「だから思ったんだ。野良猫にごはんをあげる仲間としてでもいい、君の傍にいて支えてあげられたらいいなって」
 矢田部はタバコをもみ消して、最後の一口だったらしいビールを飲んだ。
「俺じゃだめかな。俺は君の支えにはなれない?」
 うつむいてしまった弘に、矢田部は自分の方こそ寂しそうに笑った。
「だめだよな。気持ち悪いよな。三十路のオッサンで、しかもゲイだなんて」
 矢田部は吸い殻を携帯灰皿に入れると、立ち上がった。
「美味しいビールをありがとう。おやすみ」
 矢田部が静かに立ち去って行くのを、弘は引き留めたかった。でもできなかった。ただじっと座って、やがて戻ってきた猫たちが餌を食べ始めるのを、見つめていた。矢田部が残していった猫缶まできれいに平らげた猫たちは、満足そうにどこかへ消えて行った。
 弘はようやく立ち上がり、植え込みにビールを捨てると、マンションに戻って行った。


 次の日、弘は広場へは行かなかった。ただマンションの廊下から、矢田部がベンチに座ってタバコを吸って戻って行くのを、じっと見つめていた。
 矢田部はtwitterでこう呟いていた。
【最高の誕生日でした。でも自分で台無しにした。後悔っていうのは、本当に後からするものなんだと知りました】
【やっぱり言うべきじゃなかったのかもしれないと思いつつ、俺はやっぱり毎晩通うつもりです】
 弘はまっすぐで強い矢田部の想いに、心を揺らしていた。リビングのダイニングボードの上に伏せてあった写真立ては、資料用の本棚に、ひっそりとしまった。
(矢島……僕はもう一度恋をしてもいいんだろうか?)
 いいに決まってる。幸せになれ。矢島だったらきっとそう言うだろう。それでも一歩が踏み出せないまま、弘は眠りに就き、アラームで目を覚ましてシャワーを浴びた。
 朝刊を取りに行くと、分厚い封筒が入っていた。メディアジャパンの社用封筒に入ったそれを持って上がり、中を確認する。プリントアウトされた弘の原稿に、赤いボールペンで様々な指示や修正が入っていた。慌てて仕事場へ行き、メールを確認すると、阪元から一件入っていた。
【矢崎先生 お疲れさまです。メディアジャパンの阪元です。
 送って頂いた原稿に校正を入れましたので、郵便にてご送付申し上げました。ご確認の上、修正方、よろしくお願い申し上げます。阪元】
 弘はそれに対して、届いたこととお礼を伝えるメールを返すと、食事もそこそこに、早速仕事に取り掛かった。相変わらず、厳しいけれど的確な修正だった。何箇所かで大幅な変更を迫られて、弘はそれに苦戦した。
 何日もかけて試行錯誤を繰り返し、ようやく仕上げて、メールに添付して送信すると、その日はもう、夜になっていた。
 キッチンに立ち、冷凍してあったご飯でオムライスを作り、ワカメと玉ねぎのスープと一緒に食べた。後片付けをして豆を挽き、コーヒーを淹れて時計を見上げると、十時になろうとしていた。
 弘はキャットフードの袋と皿を持って、部屋を出た。広場に足を踏み入れると、ベンチに座っていた矢田部が、驚いたように振り返った。弘は皿にドライフードを盛って広場の中央に置くと、矢田部の隣に座った。
「もう、来てくれないと思ってた」
「猫たちが待ってますから」
 素直になれない自分に苛立ちながら、弘は答えて矢田部を見上げた。
「お時間、ありますか?」
「え? ああ、明日は土曜だから、別に遅くなっても構わないけど」
 そんなに日が経っていたのか、と弘は驚いた。その間毎晩、矢田部はここで弘を待っていたのだろうか。
「僕の部屋に、来て下さい」
 弘は、黒猫が食べ終わるのを待ってそう言い、残りの餌をまいて、皿とキャットフードの袋を持ち、広場の入り口に立った。矢田部は慌ててタバコをもみ消して携帯灰皿に入れると、弘の隣まで歩いてきた。
「最近家事をしてないので、散らかってますけど、それでも構わなかったら」
「いいのかい?」
「きちんと、お話を聞いていただきたいので」
 弘の言葉に、矢田部は頷いた。
 弘はマンションのオートロックを解除して矢田部を中に入れると、エレベーターで五階に上がった。部屋のドアを開け、まっすぐリビングに矢田部を通し、ソファに座っててください、と言うと、仕事場から写真立てを持って来て、さっき淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ、矢田部の前に置いて自分もマグカップを持ってその隣に座った。
 コーヒーを一口飲んでから、矢田部に写真立てを差し出した。
「僕の恋人です。二年ほどここで一緒に住んでいました」
「え? だってこれは……」
「僕も矢田部さんと同じです。でも彼はストレートでした。だから、身体の関係はありません」
 弘は全部話した。大学で出会って恋に落ちた弘を支えてくれて、一緒に暮らそうとまで言ってくれた矢島が、結婚して去って行った今も、ここのローンを払い続けてくれていることまで。ただ、自分が【矢崎雅弘】であることは言わなかった。
「僕は怖いんです。恋をして、また傷つくことが。だから、矢田部さんに対しても、素直になれませんでした」
「俺は……」
「分かってます。矢田部さんは本気なんですよね。僕が意地を張って行かなかった時も、そして今週も、毎晩あそこで僕を待っていてくれた。そうでしょう?」
 弘は、温くなったコーヒーを飲み干して頭を下げた。
「ごめんなさい。今週僕が広場に行かなかったのは、怖かったのもありますけど、仕事が忙しかったんです。決して、矢田部さんが気持ち悪いとか、そういうんじゃありません」
「謝らなくてもいい。君が俺に対して偏見や嫌悪感を持ってないなら、それでいいんだ」
「それでいい?」
 弘は、矢田部の整った顔を見上げた。明るいリビングで見ても、その顔は見惚れるくらい格好良かった。矢田部は笑って頷いた。
「また、一緒に猫にごはんをあげよう」
「矢田部さん。僕の話を聞いてなかったんですか?」
 弘の苛立ちに戸惑ったように、矢田部は眉をひそめた。
作品名:猫が導く恋 作家名:藤崎葵