猫が導く恋
部屋に戻って仕事場へ行き、PCを起ち上げる。メーラーを起動すると、DMが数件入っていた。読まずにゴミ箱へ移動させると、ブラウザを開く。twitterにログインして、自分宛のツイートにリプライを返して、ブログをチェックした。もうコメントをつけてくれた人がいたので、それに対する感謝を伝える記事を書いて、もう一度twitterのタブに移動する。
新しいツイートはbotと矢田部のものだけだった。
【黒い猫とはお友達になれそうです。本当は俺はキジ猫が好きなんだけど、贅沢は言えません】
【可愛いな、と思っている人にはおやすみを言ったけど、返事はありませんでした。野良猫と同じくらい、警戒心が強そうです】
【今日はネットはこれくらいにして、寝ることにします。おやすみなさい】
最後のタイムスタンプから推し量ると、矢田部は十二時に寝たらしい。弘はキッチンへ行って、ミルクティーを飲みながら、クリームチーズを塗ったクラッカーを数枚かじった。
読めずにいた新刊書を読み始めると、矢田部のことは頭から消えて、物語の世界が広がった。結局夜が明けるまで本を読み続け、弘はベッドにもぐりこんだ。
翌日、弘はキャットフードと玉子、それに牛乳を買いにスーパーへ行った。日曜日のスーパーは混んでいたけれど、仕方がなかった。
矢田部と弘の距離は縮まらなかった。こんばんは、とだけは言うけれど、おやすみなさいは決して言わなかったし、矢田部がぽつぽつと話す自分の身の上話にも、相槌さえ返さなかった。
矢田部は、茨城出身なのだそうだ。高校まで公立の共学で過ごし、そのまま茨城の国立大学へ進んで、教育学部に入った。成績はおおむね良好だったけれど、教員採用試験には落ちたので、そのまま大学に残って研究科に入った。
教員になることは諦めて普通に就職活動をして、今の会社に入ったけれど、営業の成績が良かったので東京の本社に異動になって、現在に至るらしい。
「水を売ってるんだ」
と矢田部は言った。家庭用から飲食業務用まで、幅広く扱ってもらえる浄水器を売っている、ということらしい。
(そういえば水道水なんて、もう何年も口にしてない)
今はどこの家でも、ミネラルウォーターか浄水器の水を飲むらしい。コーヒーや紅茶を淹れる時でさえ、水質を選んでミネラルウォーターを使う人が多いのだそうだ。
矢田部の顔と人柄に惹かれて、付け替える主婦も多いだろう、と弘は思った。特にマンションの水は貯水槽の水だ。浄水器を付けていない家庭などほとんどない。弘もそうだった。
「メンテナンスは他部署になるから分からないけど、時々お客さんから電話がかかってくる。面倒だから話だけ聞いて、サポートに回しちゃうんだけどね」
ケーブルテレビや置き薬の営業と同じように、なにかあれば矢田部が来てくれると期待する女性客が多いのかもしれない。
外回りばかりなのかと思ったら、実際にはオフィスでテレアポを取ってから改めて出向くことの方が多いのだという。夏場でもスーツにネクタイなど辛くはないのかと思ったら、移動は車でするし、それほどきつくはないのだと笑った。
一週間、弘は矢田部の話を聞き続けて、その人柄を知るにつれ、その温かさと優しさに惹かれずにはいられなかった。決して流暢に話すわけではない。弘の傷ついて凍りついた心を癒して溶かすような、ゆっくりとした話し方だった。
それでもその声は、いつまでも聞いていたいと思わせるような響きを持っていたし、渇いた弘の心にはどんどんしみ込んでいった。
矢田部はいつも、猫缶と一緒にコンビニ弁当を買って来て、それを食べながら話した。弘は矢田部が食べ終わるのを待ってベンチから立ち上がり、自分の部屋へ戻る。その繰り返しだった。
そして矢田部の誕生日の夜。弘はキャットフードの袋と一緒に、良く冷えた缶ビールを二本持って、広場へ行った。矢田部が好きかどうかは分からなかったけれど、プレミアム・モルツだったら大丈夫だろうと見当をつけた。
ベンチに置いて、猫たちに餌をあげてから、矢田部を待つ。最近では、矢田部が来ても、黒猫だけは逃げずに食べ続けるようになっていた。
「こんばんは」
矢田部は相変わらず柔らかい声でそう言うと、一心不乱に食べている黒猫を驚かさないよう注意しながら、猫缶を紙皿に開けて植え込みの陰に置いた。
ベンチに座ろうとした矢田部は、ビールに気づき、不思議そうな顔をした。
「お誕生日でしょう」
弘が一言だけ言ってプルタブを開け、差し出してくるのを、驚いたように見つめている。
「なんで知って……あ、そうか。免許証……」
それだけではなく、twitterのアカウントからも推測できたのだけれど、それは言わなかった。
「どうもありがとう」
矢田部はにっこり笑ってそう言うと、受け取ったビールを、美味しそうに飲んだ。
「こんな誕生日を迎えられるなんて、思ってもみなかったなあ」
矢田部はしみじみと言うと、弘の顔を見て、もう一度、ありがとう、と言った。
本当は弘にとって八月三十一日は、悲しい記念日だった。矢島の結婚記念日。去年も一昨年も、その日は浴びるように酒を飲んで、泣きながら眠ったのだ。
「昔は誕生日なんて、夏休みの宿題を終わらせるのに必死で、祝ってもらえるどころか、親に怒られてたな」
「もう三十路なんですから、宿題はないでしょう」
「まあね」
矢田部は苦笑いすると、ビールを置いてタバコに火を点けた。
「でも、好きな人に祝ってもらったのは初めてだよ」
静かに言われた言葉に、どきん、とする。動揺を隠すようにビールをあおったら、むせた。
「大丈夫?」
背中をさすってくれる大きくて優しい手に、ますます胸の鼓動が速くなる。
「大丈夫です」
そう言って腰をずらし、その手から逃げた。行き場を失ったその手は、再びビールの缶を握った。
「三十路の男に告白されたら、やっぱりいやか」
「は?」
「俺は君が好きなんだ。つまり、その、友人としてじゃなく」
ビールが苦いな、と弘はぼんやりと思った。
「本当は言うつもりじゃなかったんだけど。あ、酒の勢いとかじゃないから」
矢田部はぐいっとビールを飲んだ。
「初めて見た時から、可愛いな、と思ってた。なんとかして近づけないかと思ってたけど、チャンスがないまま、一年以上も経っちゃった」
「初めて?」
「俺が越してきた日、君はベランダで洗濯物を干してた。引っ越しの荷物をほどく前に一服しようと思ってベランダに出たら、くるくると動き回る君が見えた。干し終えて満足そうに笑う顔は、とても可愛かった」
そんなところを見られていたとは思わなかった。弘は驚いて矢田部の顔を見つめた。
「てっきり学生だと思ったから、朝のバスで一緒にならないかと期待したのに、君と会えるのはゴミ出しの日ぐらいで、それも俺が珍しく早起きして出た時に限られてた」
それは、弘と矢田部の生活サイクルが逆転しているせいだ。矢田部が起きる頃、弘はようやく眠りに就く。そんな二人に接点などある筈がなかった。