猫が導く恋
カリカリと小さな音を立てながら必死に食べている様子を、矢田部はニコニコと見ている。
黒猫は、満足するまで食べると、ひっそりとどこかへ消えて行った。他の猫たちが戻ってくる気配はない。弘は立ち上がって、矢田部が猫缶を置いた紙皿の近くに残りの餌をまき、キャットフードの袋を抱えた。
「もう行っちゃうの?」
「僕はここに、猫にごはんをあげに来てるんです」
「俺と話をする気はないってこと?」
弘は答えの代わりに、広場を出た。
「ねえ。明日もおいでよ。今日はだめでも、明日、それかずっと先でもいい。俺と話して」
追いかけてくる声にも振り向かず、弘はマンションの入り口をくぐった。ずきずきと胸が痛む。
(来るんじゃなかった、かな)
優しい声と話し方。弘をいたわるようなそれは、いなくなった矢島のそれよりずっと柔らかく、弘の心にしみ込んだ。
(きっと、いい人なんだろうな。でも……)
何かを話して、少しでも心を開いてしまえば、ただ淡く想っているだけで済んでいた恋は、走り出してしまうだろう。たとえ矢田部にそのつもりがなくても、もう、恋で傷つくのはいやだった。
部屋に戻った弘は、仕事部屋のPCに向かい、夜になって増えたtwitterの呟きにリプライを返し、久しぶりにブログの更新を始めた。
適当にフリーの素材を使って作った、素っ気ないブログだったけれど、読者からの感想も返って来るし、放置するわけにもいかない。以前の記事に対するコメントをチェックして、近況報告に加えて、丁寧に質問や感想に答えていく。それは、結構時間のかかる作業だった。
終わってから再びtwitterのタブを見ると、何件か新しいツイートが入って来ていた。クリックして確かめると、ほとんどがbotだったが、矢田部の呟きもあった。
【やっと少し前進しました。猫も待ち人も可愛くて、これから夜が楽しみです】
【でもちょっと心配。寂しい顔しか見せてくれなくて。いつか笑顔が見てみたいけど、焦りは禁物だよね】
矢田部のアイコンは、仔猫のアップだった。よほど猫が好きなのだろう。試しに矢田部のアカウントで検索をかけてみると、過去のツイートがずらりと表示された。仕事の愚痴は一切なく、その日に食べたものの報告や、見かけた猫の可愛さ、読んだ本の感想が並んでいて、頻繁に写真が投稿されている。
(そういえば営業だって言ってたっけ)
エリアを回る合間に入ったらしい定食屋やレストランのメニューの写真を見ながら、弘は、こんな食生活で、よくあの体格を維持していられるものだと思った。スーツの上からも分かる筋肉質のその身体に、ぜい肉がついている様子はない。腹が出ているわけでもなかったし、長身に合わせたスーツはいつもきちんとプレスされていた。
恋人の存在を匂わせるような、夜景やディナーの写真はない。晩婚化が進んでいるとはいえ、三十に手が届こうかという健康な成人男性なのに、不思議だった。
弘は画面をホームに切り替え、自分のツイートを書き込んだ。
【おはようございます。夜中にブログ、アップしました。放置していてすみません。良い週末をお過ごしください】
そしてタブをすべて閉じ、PCを閉じると、いつものように白々と明けていく空を横目に歯を磨き、パジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。
たっぷり八時間眠ってアラームで目覚めた弘は、シャワーを浴びて着替えると、朝刊を取ってきてテーブルに置き、ゆで卵とレーズンブレッドの食事を終えたあと、コーヒーを飲みながら目を通した。自民党政権に戻った日本は、別に変ることなく普段通りに日々が過ぎて行く。物価が高騰するわけでもなく、凶悪犯罪が増えるわけでもない。
結局「国」を動かしているのは、政治家ではなく官僚なのだろう。トップが入れ替わっても、淡々と仕事をこなす官僚が変わらない限り、国民の生活に変化はない。
リビングの窓から矢田部の部屋のベランダを眺めて、洗濯物が干してあることに気づいた。今日は土曜日だから、彼も家事に追われているだろう。弘は昨日始めたゲームの続きをすることにして、テレビの前に座った。
ダンジョンで迷ってしまって抜けられなくなり、いたずらにモンスターを倒してはレベルが上がるばかりの時間を過ごしたけれど、弘は基本的に攻略本やサイトは見ない。
その日は諦めることにしてコントローラーを置き、食事の支度にとりかかった。冷凍しておいたハンバーグを解凍して焼き、簡単なサラダと豆腐の味噌汁で食べた。昨日の肉じゃがをつまみにしながらビールを飲む。今日はエビスだ。
矢田部の部屋のベランダの洗濯物は取り込まれ、カーテン越しに灯りが点いているのが見えた。
ビールを飲み終わった弘は、キャットフードの袋と皿を持って、部屋を出た。これ以上、矢田部と親しくするつもりはなかったけれど、猫に会わずに過ごす毎日は味気なかったからだ。
広場に行くと、待ちかねたように猫たちが群がってくる。皿にドライフードを盛ると、それが最後だった。丁寧に袋をたたみ、一歩退いてベンチに腰をおろし、無心に食べる猫たちを眺める。避妊手術に連れて行かれるほどには懐かれていないから、もしかしたら苦情が来るかもしれない。それでも、こうして過ごす時間は貴重だった。
「こんばんは」
声がかかって見上げると、矢田部が佇んでいた。ポロシャツにジーンズ姿だ。スーツを着ていない彼を見たのは、初めてだった。
「……こんばんは」
「やっぱり俺が来ると、逃げちゃうんだな」
猫たちはかき消すようにいなくなっていた。
「タザキくんも逃げちゃう?」
不安そうに言われて、首を振った。昨日の黒猫だけは戻ってくるだろうし、それまではいるつもりだった。
「良かった」
矢田部はそう言って、昨日の紙皿を回収し、新しい紙皿に猫缶を開けて、植え込みの陰に置いた。
「俺、営業なんかしてるでしょう。人当たりはいいつもりなんだけど、野良猫とタザキくんには怖く見えるのかな」
「僕はもう、二年近くも通ってますから」
「ってことは、俺が越してきた時にはもう、ここで猫と会ってたんだ。俺もそれくらい粘らなきゃだめかな」
矢田部が、弘の部屋のリビングからちょうど向かい側に見える部屋に越してきたのは、去年の春のことだった。それまで住んでいたのは女子学生で、毎日こまめに洗濯をするので、いつもバスタオルや枕カバー、パジャマなどが翻っていた。
矢田部は弘の隣に座って、タバコを吸い始めた。長い脚を組んで、ゆったりと煙を吐く。弘の私生活を詮索するつもりはないらしい。ただ黙って、昨日のように猫が戻って来てくれるのを待っているようだった。
やがて、やはり黒猫が戻ってきて、ドライフードを食べ始めた。
「猫缶よりカリカリの方が好きなのかな。やっぱり」
「栄養価が高いことを知っているだけでしょう」
「そうかもね」
黒猫が食べ終わって姿を消すと、弘も立ち上がった。今夜は、矢田部も引き留めなかった。
「おやすみ、タザキくん」
それだけ言われたけれど、弘は、挨拶を返さなかった。自分はこれから活動するのだとも言えなかったし、矢田部との距離を縮めるつもりもなかったからだ。