猫が導く恋
分からなかったけれど、弘は広場に行くつもりはなかった。「あの人」がどんなつもりでそこにいるにせよ、弘の心のどこかが、これ以上近づかない方がいいと、警鐘を鳴らしていた。
(近づいたら火傷する。僕はもう、誰とも恋なんてしない)
弘は仕事部屋にこもって、原稿の続きに没頭しようとした。とにかく書いて、頭から「あの人」への想いを追い出したかった。幸い、詰まっていた部分を通り過ぎると、糸がするするとほどけていくように、不思議に文章は流れてきた。
資料用にブックマークしておいたサイトを読み返したり、本をめくって必要な知識を探したりしながら、途中、息抜きのために豆を挽いて淹れたコーヒーを飲んで、弘はぶっ続けで朝まで原稿を書き続けた。
区切りのいいところまで書いてから保存してテキストエディタを終了させ、マウスを画面の右下の日付にポイントすると、今日は土曜日だということに気がついた。
ブラウザのタブを新しく開き、twitterにログインして、ツイート欄をクリックする。
【おはようございます。ようやく筆がのってきて、ある程度まで原稿を書きました。これから寝ます。おやすみなさい】
それだけ呟いてから、タイムラインをさかのぼる。「あの人」はやっぱり七時間前に呟いていた。
【今日は猫も待ち人も来たらずでした。それでも俺は諦めずに毎晩通うつもりです】
それを確認しても、胸は騒がなかった。きっとそのうち諦めてくれる。どんなに根気強くても、一週間が限度だろう。そうしたらまた、猫たちに餌を運んでやるつもりだった。
弘は疲れた身体に熱いシャワーを浴びると、パジャマに着替えて、ベッドにもぐりこんだ。柔らかい電子音が響くまで、ぐっすりと眠った。
目覚ましのアラームは、毎日正確に午後二時に鳴る。寝室のエアコンを切ってリビングへ行き、向かいのマンションを見ると、洗濯物が翻っていた。ワイシャツはクリーニングに出すのか、干してあるのはタオルや下着だけだった。
弘はそれをじっと眺めてからキッチンへ行き、トーストとツナ入りオムレツで食事を済ませ、豆を挽いてからコーヒーを淹れた。朝刊を取りに、集合ポストまで行かなければ、と思いながらも、なかなかその気になれずにいた。
重い足を引きずって部屋を出て一階まで降りると、ポストには朝刊のほかに、ピザ屋などのチラシが入っていた。チラシは全て集合ポストの脇に置いてあるゴミ箱に突っ込み、朝刊だけを持って部屋に戻る。保温しておいたコーヒーをもう一杯飲みながら目を通し、きちんとたたんで古新聞を入れる紙袋に入れた。
掃除は昨日、隅々まで済ませてしまったし、洗濯物も、一回回すにはもったいない量だった。買ってから読まずに本棚にしまっておいた新刊書を持ち出して、リビングのソファで読むことにした。
弘が好きな作家の久しぶりの書き下ろし長編は、読みだすとめくる手が停まらないほど、面白かった。
途中で咽喉の渇きを覚えて、ペットボトルの無糖紅茶を飲み、軽くクラッカーをつまむと、最後まで一気に読み終えてしまった。気になった箇所をめくり直しながらじっくり読み返し、結末に満足して本を置くと、夕方だった。何気なく窓の外を見ると、「あの人」が洗濯物を取り込んでいた。
弘はそれを最後まで眺めてから、今日はカレーではなく、きちんとした食事を摂ろうと決めた。
夏野菜の煮込みを作って冷蔵庫で冷やし、じゃがいもと人参とほうれん草を電子レンジで加熱調理すると、焼き肉用の国産牛肉を炒める。米は炊かずに、缶ビールを取り出して素焼きのピルスナーに注いだ。ビールはたまにしか飲まないが、その分プレミアムビールを買う。今日選んだのはブラウマイスターだった。
大目に作った夏野菜の煮込みをつまみに、もう一本ビールを飲むと、食器を洗って仕事場にこもった。せっかくつかんだ流れを手離したくなくて、ぐいぐいと書いていく。十本の指は休まず動き、頭の中にわいてくる文章を正確にタイプしていく。
前作で救い出された姫君は、吟遊詩人と共に去って行った騎士の代わりに、言葉を喋る不思議な猫と一緒に、様々な困難を乗り越えていった。
ビールのせいで渇く咽喉を、ミネラルウォーターで潤しながら、弘は次々に現われる魔物や精霊たちを鮮やかに描くために、資料の本やサイトと首っ引きで、書き続けた。疲れると眼鏡をはずしてインストゥルメンタルのヒーリングミュージックを聴き、明け方までずっとPCに向かっていた。
そんな日が何日も続き、ようやくENDマークのついた原稿を、最初から読み直しては、推敲していく。誤字や脱字のチェックはもとより、文庫の体裁に合わせて、改ページのところで段落が終わるように、加筆修正していった。
ようやく満足できる文章に仕上げると、久しぶりにプリンタの電源を入れ、印字してみる。画面では気づかなかった部分も、活字になると見えてくるからだ。その日はそこで作業を止めて、ベッドにもぐりこんだ。
目覚めた弘が、たまっていた家事を済ませて買い物に行き、久しぶりにバスタブにお湯を満たして入浴剤を入れ、ゆっくりと浸かっていると、時間が惜しくてカレーばかり続いた胃が、別のものを要求しているのが分かった。
手間をかけてハンバーグを作り、今日食べる分だけを残して後は冷凍し、じゃがいもや人参、芽キャベツと一緒に煮込む。冷やしてあった無添加の赤ワインと、軽く温めたバゲットと一緒に食べると、穏やかな気分が戻ってきた。
鍋や食器を洗って時計を見ると、夜の十時を二、三分過ぎたところだった。
(あれから一週間近く。もう諦めた頃ですよね)
弘は、それを確かめるために部屋を出て、廊下の端へ行った。
(嘘、でしょう……?)
広場のベンチには、変わらない様子で「あの人」が座っていた。猫たちが集まっているかどうかは分からなかったけれど、鳴き声はしない。ただじっと座ってタバコを吸っているらしく、時折動く手と微かな煙が見えた。
胸が苦しくなった弘は、そっとその場を離れた。
(本気、だったんだ……)
あれから毎晩、ああやって弘を待っていたのだろうか。
(でも、なんで?)
猫好き同士で、話がしたいだけだろうか。その可能性は大いにあった。けれどそれだけでは、twitterの「可愛い人」や「フラれそう」などという呟きは大袈裟だと思う。真に受ける気はなかったけれど、「あの人」も、弘に少なからぬ好意を抱いていることは確かなのかもしれない。
混乱しながら仕事場へ行き、プリントアウトされた原稿を手に取る。とにかく今は、仕事を仕上げておかなければ、心配してくれている担当の阪元にも、申し訳ない。
横書きのPCの画面で読むのと、縦書きに印字されたものを読むのとでは、だいぶ印象が変わってくる。弘は赤のボールペンを手に、気になった部分を次々に訂正して行った。それをもとに、またPCに向かう。すべての作業が終わった頃には、夜が明けていた。
弘は久しぶりにtwitterにログインしてみた。タイムラインをさかのぼって、ヤタベのログを探す。あった。
【やっぱり今夜も、会えませんでした。猫も可愛いあの人も、タバコの煙みたいに、消えてしまいました。それでも諦めきれない俺って、しつこい性格なのかな】