猫が導く恋
お皿とキャットフードの袋を抱えて、ひっそりと部屋を出る。みゃーみゃーと鳴き声を上げて群がってくる猫たちに、袋からざらざらとドライフードを出して与え、自分はベンチに座ってその様子を眺めていた。
すると、必死で餌を食べていた猫たちが、ぱっと散って行った。
「あー。逃げちゃった」
昨夜と同じような、品の良いスーツに隙のないネクタイを締めたその人は、そう言って弘の隣に腰を下ろしてきた。
「こんばんは」
「……なんなんですか」
思わず遠ざかるように腰をずらしてそう言うと、その人はくすっと笑った。
「君も猫みたいに逃げちゃいそうだね」
今日も、コンビニの袋を下げている。でも中身は違った。紙皿を取り出して、猫缶を開け、盛りつけて弘の皿に並べて置く。でも、猫たちが戻ってくる気配はなかった。
「猫、好きなんでしょ?」
「嫌いな人間が餌をやりに来るわけがないでしょう」
弘がそう言うと、その人はホッとしたように微笑んだ。街灯の下で見ても、すごく整った顔立ちだということは分かった。
「やっと喋ってくれた。俺も猫が好き。でも賃貸だから飼えなくて。この辺野良猫がいるのは知ってたけど、君がごはんあげてたんだね」
その人は、ポケットからタバコとライターを取り出してから、思い出したように、吸ってもいい? と訊いてきた。
「ポイ捨てしないで下さいよ」
「大丈夫。携帯灰皿持ってるから」
そう言うと、タバコをくわえて火を点け、深々と吸い込んだ。
「俺、矢田部雅彦。二十九歳。営業やってるサラリーマン。君は?」
「なんで自己紹介しなくちゃいけないんですか」
「これから俺も、毎晩通おうと思って」
にっこりと微笑まれて、弘は思わずどきっとしたけれど、精いっぱい冷たい無表情を保って、腰を上げた。
「なら、バトンタッチですね」
「どういうこと?」
「あの子たちは僕が飼ってるわけじゃありませんから。ごはんをくれる人が他にいるなら、僕は用なしです」
そう言って、昨夜と同じように残った餌を植え込みの陰にまき、皿とキャットフードの袋を持って立ち去ろうとした。
「俺は待ってるから!」
声が追いかけてくる。
「猫たちも、きっと君を待ってるから! 毎晩待ってる!」
その声を振り切るように、弘はマンションの入り口に駆け込んだ。慌ただしくオートロックを解除して、自動ドアをすり抜ける。一目散に自分の部屋に飛び込んだ弘は、背後で閉まるドアの音を、重く聞いていた。
(僕は決めたんだ。もう恋なんてしない。なのに「あの人」を好きになった。だからこれ以上近寄りたくない)
弘はとぼとぼとキッチンへ向かい、キャットフードの袋を置いて、皿を洗った。
今日こそは続きを書き進めなくては、と思うけれど、こんな苦しい想いを抱えて、ファンタジックな世界に浸れるはずもなかった。あてもなくネットをさまよい、何冊も資料を抜き出しては広げ、ただただ、ぼんやりとテキストエディタの画面を眺めた。
プロットを変更するつもりはなかった。なんとか練り上げて、ようやくGOサインをもらったプロットだ。今さら変更はきかない。
そのプロットを読み返し、文庫になった前作を読んで、なんとかその世界に浸ろうと努めたけれど、虚しく時間は過ぎて、朝になってしまった。
何の気なしにtwitterにログインすると、やはり七時間前に呟かれたツイートが残っていた。
【せっかく可愛い人とお喋りしながら、好きな猫と触れ合えると思ったのに、フラれそうです。でも、俺は絶対諦めないんだ】
アカウント名は@m_yatabe0831。
(偶然じゃなかった。「あの人」なんだ)
弘は呆然として、その呟きを繰り返し読んだ。
ヤタベなんて珍しい名前だ。マサヒコのmがついているから、間違いない。日付らしい四ケタの数字はきっと、誕生日だろう。でもなんで、「あの人」をフォローしたのだったか、自分ではうまく思い出せなかった。おそらく感想をくれたからなのだろうけれど、それがどういう内容だったか、今となっては分からない。
弘は毎朝の習慣になっている呟きも残さずにPCを閉じると、のろのろとキッチンへ向かった。
昨夜カレーを作ったせいで出た生ゴミと一緒に、燃えるゴミをまとめて、ゴミステーションへ降りる。隣の広場を覗くと、食い散らかされた痕のある紙皿が、ポツンと残っていた。弘はそれを拾って、ゴミ袋を開けて放り込むと、もう一度しっかり縛って、ステーションに置いた。
(「あの人」は、本当に今夜も待っているんだろうか。この僕を?)
ベンチの下に吸い殻はなかった。ちゃんと携帯灰皿に入れて持ち帰ったらしい。
弘は部屋に戻ってパジャマに着替え、エアコンをつけてから、ダブルベッドの隅にもぐりこんだ。虚しい作業に疲れているはずの頭は、妙に冴えてなかなか寝つけない。街灯の下で見た「あの人」の笑顔が、眩しく思い出されて胸が苦しかった。
(きっとすぐに諦めて僕のことなんか忘れてしまう)
そうは思っても、毎晩待ってる、という声と、絶対諦めない、という呟きが、頭から離れてくれなかった。
ようやくとろとろと眠りに入り込んだ弘は、矢島の夢を見た。
「ごめんな。お前のこと、好きだったよ。でもやっぱり無理があったんだ。お前には才能があるから、それで食っていかれると思う。そのうち、いい人に巡り会えるよう、祈ってるよ」
夢の中の矢島は、別れる時に言った言葉を、一言一句違えずに繰り返した。
「いいんだ。ありがとう。これまで僕を大事にしてくれたこと、忘れないよ」
夢の中の弘も、同じことを言った。いい人って誰? という叫びを押し殺して。
柔らかい電子音で目覚めた弘は、泣いていた。ごしごしとこすって涙をぬぐうと、そのまま顔を洗うために洗面所へ向かった。
冷凍してある食パンを焼いて、スクランブルエッグを作って食べ、オレンジジュースを飲むと、少し落ち着いた。冷蔵庫に入れておいたコーヒーをカフェオレにして飲み、朝刊にざっと目を通すと、掃除に取り掛かった。
トイレもバスルームも、キッチンまでピカピカに磨き上げると、バスタブにお湯を張って入浴剤を入れ、ゆっくり浸かった。
カレーを解凍して食べ、やはりレモンスカッシュにウイスキーを注いで飲むと、ぼんやり時計を見上げる。味噌とマヨネーズを和えておろしにんにくを加えたディップをきゅうりにつけてかじると、青臭い香りが口の中に広がった。
一人で過ごす十三畳ものLDKは、ぽっかりと空いた洞窟のようだった。カタログをめくりながら、矢島と二人で選んだダイニングセットも食器棚も、テレビを乗せたオーディオセットも、今自分が腰を下ろしている応接セットも、みんな苦しい思い出をよみがえらせるだけのものでしかない。
壁にかかったモダンなデザインの時計までが、妙に虚ろに時を刻んでいく。
弘はハイボールもどきを飲み終えて、時計が十時十分を指すのを待ってから、クロックスをつっかけて、マンションの廊下を端まで歩いた。身を乗り出すと、辛うじて隣の広場のベンチが見える。そこに「あの人」を見つけて、弘はずきんと痛む胸を抱え、部屋に戻った。
(本当に待ってるんだ。猫を? それとも僕を?)