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黒崎つばき
黒崎つばき
novelistID. 47734
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ロボットが泣いた日

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 それはこの世界からの逃走でもあり、反発でもあったのかもしれない。
 いつもは静かな畔は、嵐の所為で荒れ狂う海原を連想させた。
 世界が終わる。
 そんな終焉がふっと徹の脳裏を過ぎ去っていく。
 広い畔は反対岸までかなりの距離があった。
 こちらからでは雨の所為でよく見えない。
 滅茶苦茶な方向から吹く風の所為で木々はまるで生き物みたいに暴れ回っている。
 左側は岩場の様になっていて通る事が出来ない為、右周りに反対側の岸まで向かう。
 柵も何もない岸の周りはごつごつと小さな岩が飛び出していて、一歩間違えれば転倒し深い畔に落ちてしまいそうだ。
 もし、ここに菫が落ちていたら。
 そんな予感にぞっと背筋が震えた。
 微かに、忘れていた恐怖が過った気がして徹は小首を傾げた。
 それが何に対しての恐怖であったのか、理解する事が出来なかったのだ。
 そして、何故自分がこれほど必死になっているのか、その理由さえ見出せずにいる。
 ただ背後から迫る焦燥感に追い立てられる様でもあった。
 突如として目の前から消えてしまった幼い妹が気がかりで仕様が無かった。
 なぜそう思うのか、家を出た時からずっとそれを考えている。
 けれど体は勝手に動き回っていて、菫を探す事を止める気配はない。
 反対側の畔まで回ったが、やはりそこには何もなかった。
 荒れ狂う世界の音が、絶望を予感させる。
 忍び寄る焦燥が背後で叫んでいた。
 おぞましい声で、長い長い悲鳴の様な声で。
「――っ」
 徹は再び走りだしていた。
 反対側の岸の先に続く林はまだ終わりではない。
 その先には、あの花が咲いている事を思い出していた。
 まるで、白い絨毯を敷いたみたいな、シロツメクサの花が群生している場所。
 家の前に広がる白い花の種は、きっとこの林の奥から飛んできたのだ。
 そして、ここにシロツメクサが群生している事を菫に教えた。
 今度、もっと大きくなった一緒に行こうと約束した。
 ここは人気がなくて危ないから、子供だけで入ってはいけない場所だから。
 すると楓は不思議そうな顔をして言った。
 じゃあ、お兄ちゃんはなんで知ってるの?
 徹は、それは秘密だよと、誤魔化す様に呟いた事を鮮明に思いだす。
 きっと菫は、一人であそこに行ったんだ。
「菫!」
 林の奥の一番暗い場所。
 けれどそこは、窪地の様になっていて何故かシロツメクサが沢山咲いている。
 その白い絨毯の真ん中に、小さな何かがあった。
 息が、出来なかった。
 全身が戦慄く感覚を覚えながらも、徹はたどり着いたその場所を茫然と見つめた。
 白い絨毯、雨に濡れて湿った草花。
 薄暗い中でも、そこは何故か視界が酷くクリアだった。
 その中央に蹲る小さな人影は、何故か真っ赤な水溜りの上にいた。
「す、みれ……?」
 震える両足が酷く頼りなかった。
 今にも崩れ落ちそうになる全身を、歯を食いしばり必死に支えながら、一歩一歩その影に近づいて行く。
 状況が上手く理解出来なかった。
 何故、菫は仰向けに倒れているのだろう。
 何故その体の下には真っ赤な水溜りが出来ているのだろう。
 白と赤のコントラストが酷く鮮明で、惨酷なまでに美しくさえあった。
 徐々に近づいていく距離、それに伴い菫の無残な姿が徹の視界に強く影を刻み込む。
 仰向けに倒れた体のあちこちから、真新しい真っ赤な血が流れ出していた。
 白いワンピースを着た小さな体は、全身をナイフの様なもので切り裂かれ、薄く開いた茶色の瞳は何も映しはしない眼球を空へと向けていた。
「……菫?」
 次から次へと落ちてくる雨が、菫の全身を濡らし、まるで投げ捨てられた人形の様でもあった。
「菫、菫!」
 たどり着いた菫の体の横に膝を突き、まじまじと陶器の様な顔を覗き込んだ時、やっと菫が死んでいる事に気付いた。
 それも、残忍な何者かの手によって散々に傷つけられ、弄ばれ、殺された菫の亡骸。
 空を見つめたままの目は、世界に絶望したみたいに仄暗い色をしていた。
「――徹!」
 遠くから、楓の声が聞こえた気がした。
 けれど地についた体は動かず、菫の姿から目を放す事が出来なかった。
「徹?」
 遠くから近付いてくる足音。
 楓と、佐久間のものだ。
 背後で、二人が息を飲む音を聞いた気がした。
「な、にが……?」
「――っ……いやあああ!」
 雨音を裂く様な長い悲鳴が木霊するのを聞きながら、徹は菫の手に握られているシロツメクサに視線を奪われた。
 葉が四つに分かれた、幸せを呼ぶ四つ葉のクローバー。
 前に菫がくれた、あのクローバー。きらきらと太陽に反射して輝いていたクローバー。
 けれど、あの時と同じように菫の手の中に握られているそれは、つやつやとした美しい面影などどこにもない、赤黒い血に染まって、全く別のものにさえ見えた。
 声を上げて泣き叫ぶ楓の声が、まるで世界の終わりを告げているみたいだった。
 振り続ける雨の音がけたたましく大地を叩く音を聞きながら、誰もその場を動く事が出来ずにいた。

 その後の事を、徹は上手く思い出す事が出来ずにいた。
 あの、衝撃的で残酷的な日から、既に数日が経っている。
 菫が死んだ。
 その実感は尚も徹の中に浸透せず、まるで悪い夢を見ている様に曖昧な感覚だった。
 いや、徹だけではない。
 楓も、佐久間も、未だに菫が死んでしまった事を理解していないみたいだった。
 それもこんな平和な地で、猟奇的な殺人者に殺されたなど、誰が信じられるというのか。
 日常に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまったみたいに、徹たちの日常は変わってしまった。
 誰もが生気の抜け落ちた様な顔で日常を消費している。
 何かに打ちのめされ、全てをずたずたに引き裂かれたみたいに傷だらけで、けれど痛みさえ感じられない程、この世界に絶望している。
 犯人を恨むだとか、菫の死を悲しむだとか、それ以上に喪失感と絶望感が漂っていた。
 まるで自分の様に表情を失くしてしまった楓と佐久間を見る度、徹は胸の奥が腐り落ちていく様な気配を覚え始めていた。
 そして漂う腐臭に意識が狂っていく気がした。
 菫が死んだのは、自分の所為だ。
 その確信が徹という自我をどこまでも追い詰めた。
 菫はあの日、きっと四つ葉のクローバーを探しにあの林の奥まで行ったのだ。
 徹へ四つ葉のクローバーをあげれば、また笑ってくれるかもしれない。
 菫はそう思ったのかもしれなかった。
 そしてあの場所を教えたのもまた、自分であるのだと、徹はただただ自身を責めた。
 同時、ふと漂う思いがあった。
 これは、罰なのかもしれないと。
 実の親を殺した事への、罰が中ったのかもしれない。
 何かの手違いで、自分が死ぬ筈だったのに代わりに菫が死んでしまった。
 徹には、そう思えて仕様が無かった。
 世界は常に理不尽で惨酷だ。
 そんな事、ずっと前から知っていた筈なのに。
 徹は悉くに運命を呪い、また世界を恨んだ。
 そして何より、自身の生を嫌悪していた。
 自分と出会わなければ、菫は死ななかったかもしれない。誰も、こんな思いに打ちひしがれる事もなかったかもしれない。
作品名:ロボットが泣いた日 作家名:黒崎つばき