ロボットが泣いた日
もしかしたら、母も父も、自分がいなければもっと違った形で在り続けられたのではないか。
実の父を殺した。
その罪は、一体どうすれば消えるのだろう。
きっと、自分はずっとその答えを知っていた。
知っていて、見ないふりをしてきた事を、徹は深く後悔していた。
***
真夜中だった。
全ての明かりを落とした家の中はどこまでも暗く、陰鬱で、それでいて末恐ろしい様な、そんな漠然とした恐怖が渦巻いてる様な気さえする。
「……あなた?」
楓はふと覚醒してしまった意識の中、常に横にある筈の気配がない事にすぐ気が付いた。
隣の布団はもぬけの殻で、乱雑に捲られた上掛け布団が主人の留守を不満がる様に皺を刻んでいる。
「……」
ゆっくりと身を起こし、月明かりしかない室内を見渡す。
彼はどこへ行ってしまったのか。暗すぎる空間の中では時計の針も見えはしなかったが、今が真夜中である事は何となく、漂う雰囲気で分かった。
探しに行った方がいいのだろうか。
そう思いたって立ちあがろうとしたが、もしかしたら、今は一人になりたいのかもしれないとも思う。
あんな形で一人娘を失ったのだ、思う所はきっと自分よりも深いのだろう。
楓とて、無論悲しかったし、酷い喪失感に打ちのめされて食事さえ喉を通らない始末だ。
それでも、実際に血が繋がっていて赤子の時から育て上げた娘の父である佐久間と、自分が感じる感慨には酷い落差があるに違いなかった。
それを思うと情けない話しだが楓には佐久間を支える自信がないのだった。
こんな事が起きてしまった以上、時間の経過だけが薬で、他の全ては一様に無力でしかない。
そして楓は自身の無力さに打ち震えながら涙を零す事しか出来なかった。
自分がもっと強い人間であったなら、きっと徹もああはならなかった。
後悔と歯がゆさ、そして鬱屈した心に打ちのめされて、ただ世界の理不尽さに耐える事しか出来ない。
私には、何も出来ない。
そんな脆弱さにまた打ちのめされて、抜け出せない連鎖の渦に飲み込まれていく。
深く潜り込んだ布団の中で、楓は何も考えまいという様にきつく目を閉じるのだった。
しかし、佐久間が夜な夜な布団を抜け出す事は多々あった。
不意に孤独感に苛まれる様にして暗闇の中で目を開ければ、いつも佐久間は居なかった。
きっと、眠る事も出来ないのだろう。楓はそう思った。
自分だって毎日が快眠とはいかない。布団に入ってからも目を瞑ればあの時に見た菫の亡骸が網膜の奥深くにまで刻まれていて、脳裏の片隅には常に菫の硝子玉の様な何も映さない仄暗い瞳が写真の様に残っていて、いつまでも眠る事なんて出来なかった。
それでも疲れ果てた心と体は睡眠を欲していたし、気づけばいつの間にか夢の中にいて、白々しい朝を迎えていた。
そんな自分とは違い、きっと佐久間は一睡も出来はしないのだろう。
あの日から、佐久間はまるで人が変わってしまった様だった。
せっかく戻った笑みも露の様に消えうせて、まるで初めて会った時の様に世界を恨む罪人の様な瞳が、また彼の顔を陰鬱に彩っていた。
彼は、世界に絶望している。そして恨んでもいるのだ。理不尽で、惨酷なこの世界を。
佐久間の妻、佐久間遥が死んだのは、交通事故の所為だった。
早朝の、見通しの悪い交差点での事だったらしい。
楓は、ゆっくりとそれを語る佐久間から一度も目を離す事が出来なかった。
彼の目は、ただ何もない一点を見詰めたまま、瞬きさえしなかった。
その時に感じた悲しみ、絶望、怒り。様々な感情が言葉を綴る度に佐久間という男を飲み込んでいく様にも見えて、楓は少し恐ろしかった。
彼の中では、きっとまだ過去の事ではないのだろう。今も尚、色濃く彼を支配して離さない、絶対的な痛みなのだろう。
遥は、人通りが多い交差点にも関わらず、ひき逃げをされてそのまま通報される事もなく亡くなった。
そこには、一種の集団心理が働いていたのだと、佐久間は悔しそうに語った。
人が多い場所の場合、誰もが皆、他力本願になる。誰かが通報する筈だ、自分が駆け寄る必要はない。
そんな傍観的心理が働く。そしてそれは、容易に一人の人間を殺してしまうものなのだという。
早朝であった事も災いした。
早朝の交差点は、出勤に向かう者が殆どだった。つまりは急いでいるのだ。
だからこそ、その集団心理は成立してしまった。
ここで足を止めればあのバスには乗れない。あの電車には乗れない。そんな下らない焦燥が人々の足を止めなかった。
事故の事が通報されたのは、発生から一時間近くも経ってからの事だったらしい。
そして遥は死んだ。
医師の話しによれば、もう少し早く処置をしていれば助かったかもしれないと言う事だった。
それは一人の人間を助けられなかった医師の言い訳だったのか、それともやり切れない思いからきた台詞だったのか。
けれど佐久間はその言葉に全身が戦慄く程の怒りを覚えたのは確かだった。
ひき逃げをした犯人は後に自首したらしいが、そんな事で佐久間の怒りが静まる筈もなく、むしろそれは更に佐久間という男に世界への憎悪を齎す結果となった。
原因はよそ見運転だった。乗用車は遥を跳ね飛ばしたのではなく、転んだ所を乗り潰す様にして通過したという。
その為に大した事故音が響かず、通勤者達は事故が起きたという認識が明瞭に持てなかったというのも災いしていた。
明確になった事故当時の背景は、あまりに惨酷で不幸だった。
佐久間は生きる気力さえ失っていた。けれど、遥の忘れ形見であり、実の娘である菫の存在が、今日まで佐久間を生かし続けていたと言っても良い。
その菫さえもが、佐久間を残し死んでしまった。
何故人は、どこまでも不幸の渦へ飲み込まれてしまうのか。
それが運命という揺るがす事の出来ないその人の道筋だからなのか。
楓はそんな事を思うのだった。
絶望に彩られた彼は、今度こそ世界と決別するのではないか。
そんな危惧が時折、楓の胸に飛来して嫌な焦燥を連れてくるのだった。
***
菫が死んでから十日目の夜。
徹は新月の中、闇と共に家を抜けだした。
酷く乾いた夜だった。
夜風もなく、何の音も聞こえない静寂。
月の光もない夜の空は、まるで太陽の光さえ届かない深い水底を連想させた。
海底を彷徨う海蛇の様に、徹は夜の世界を移動していく。
家を出て、向かったのは果樹園とは反対方向にある山だった。
白樺の木が多い、夜にはなんとも不気味な雰囲気を持ったその山の中に、徹は躊躇いもせず足を踏み入れた。
家の裏手に位置する大して高くもない山を抜けると、更にその先にある山を登った。
ここまで来ると家からは一時間程度の距離になる。
足場の悪い山道に遊歩道はなく、獣道と言っても過言ではない程に生い茂ったものだった。
暗い山中を、徹は何を思うでもなく登っていく。
ゆっくりと、ただ、緩慢に足を進め斜面を登り続けた。
時折、不意に訪れた侵入者を警戒する様に野鳥が飛び立つ気配以外、そこには何もなかった。
規則的に続く足音は乱れる事無く前へと進んでいく。