ロボットが泣いた日
春になると、家の前に広がる野原には、真っ白い絨毯を敷いたみたいなシロツメクサが群生する。
雪を連想させるそれは、それでも不思議と冷たい印象は受けず、ふわふわとした柔らかな優しさを感じる。
シロツメクサの絨毯の先には、青々とした桃の木が見えて何とも美しい風景だった。
楓はその景色を見るのが好きだった。
いつも朝早くに桃の果樹園へと赴くまえ、楓は数分、この景色を楽しんだ。
白い絨毯、青々とした桃の木、そしてその先に続く清々しい青空を見る度、少しずつ胸の奥に沈殿し続けている鉛の様なものが消えていく気がするのだ。
山間から流れてくる風は優しくて、まるで自分が美しい童話に出てくる純真な少女の様にさえ思えて、楓は一人自嘲する。
いい歳をした女が童話の少女と自分を重ねた事に少なからずの羞恥を覚えながらも、楓はその想像に満たされた。
ここには、悪がない。
都会で感じる荒んだ空気も、雰囲気も、敵意さえ感じないこの土地は、楓にとってはエデンの様にも感じられた。
もっと早くに帰ってくればよかった。
就職する為に両親を振り切って東京へと出たけれど、本当は寂しかった。
だからこそ、始め優しく接してくれた健とすぐさま結婚をしてしまったのだが。
今思えば、あれは浅薄だった。
結婚してから、何度も思う事だった。
私はこの人と結婚して、後悔はしていないだろうか、と。
そしてその僅かな歪は年数を重ねるごとに大きくなって、とうとう取り返しのつかない所まで転がり落ちた。
いや、もう止めよう。過去に囚われ続けてもいい事なんて一つもない。
深みへと嵌っていきそうになった思考を、楓は二、三度小さく首を振るって払う。
「あ……」
その時、視界の中に子供達の姿が映った。
少し離れた場所に徹と菫がいた。
朝が早い両親と共に、子供達もまた起床が早く早朝からこの野原で二人、戯れる事が多かった。
相変わらず表情の変化に乏しい徹ではあったが、菫を見る時の目が何となく優しさを帯び始めている事に楓は気付いていた。
やはり、子供は子供に任せるのがいいのかもしれない。
きっとあの子も、菫と接する内に心を取り戻せるのではないか。
ロボットと化してしまったあの子の心は、無垢な幼い子供の心に感化され、奇跡的に息を吹き返すかもしれない。
そんな淡い希望を、この時の楓は未だ持ち続けていた。
「お兄ちゃん、これあげる」
そう言って菫が徹に差し出したのは、小さな小さな四つ葉のクローバーだった。
つやつやと朝日を浴びて光る葉が、まるで小さな宝石を纏っている様にも見えた。
「ありがとう」
差し出された小さなクローバーをお礼と共に受け取った時、何故か菫は驚きに目を見開いた。
そしてわずかに俯くと、もじもじとしながらも頬を赤くしてあどけない笑顔を零す。
その光景を離れた所で見ていた楓は、一人驚きに動揺していた。
今、あの子は、笑っていなかっただろうか?
遠目では視認し切れなかったが、確かに今、能面の様になってしまったあの無の顔が僅かにほころんだ様に見えて、楓は今にも泣きだしたい衝動に襲われた。
驚きと喜び、体の底から湧きあがる咆哮したくなる様な激情が、そっと楓の全てを包み込む。
あの子はちゃんと感情を取り戻してきている。
そう強く確信すると、楓は何かを祈る様にどこまでも澄み渡った青い空を仰ぐ。
莫大な可能性に満ちた未来へ希望を持つ事の儚さを知りながら、それでもまだ見えない先へと想いを馳せる事が、楓にはたった一つの望みだった。
けれどその望みも、決して不可能なものではない。
あの子はきっと取り戻せる。
過去に置いてきてしまった心の一部を、きっと再生し、再び手に入れる事が出来る。
そしてまた、既に忘れてしまったあの子の笑みを、今一度見る事もきっと出来る筈だ。
泣いて、笑って、声を荒げて怒る事も、きっと、また。
「楓? どうしたの?」
「あなた……。ううん、何でも、何でもないの。ただちょっと、感傷的になってただけ」
いつの間にか背後に立っていた佐久間がきょとんとした顔で楓を見ていた。
「……そっか」
「うん」
深くを聞こうとしない佐久間の気遣いは楓にとってとても有難かった。
互いに、過去に傷を持った者同士、踏み込んではいけないボーダーラインをしっかりと認識している。
そんな二人だからこそ、皮肉にも上手くやっていけるのも事実だった。
佐久間という男性に出会えた事を、楓は深く感謝していた。
別々の運命を歩んでいた人たちが、何かの弾みで同じ道を歩きはじめる。
それは奇跡とも呼べる運命だったのかもしれない。
田舎の家は、兎にも角にも広い。
ここへ越して来てから、徹は初めて自分の部屋を与えられた。
徹は今年で十二歳になる。来年には中学生だ。
だからこそ、佐久間の計らいで徹は自室を与えられる事になった。
男の子なのだし、少々早いが自立の意味も兼ねて佐久間は徹にも部屋を一つ与えようと楓に口添えをした。
楓は始め、少し反対した。
なるべく目の届く所に息子を置いておきたいという希望もあったが、結局は佐久間の提案に乗ったのだった。
けれど徹は一日の殆どを自室で過ごす事はなかった。
大半は外に出て、庭の手入れや佐久間と楓の手伝い、そして菫の相手をしている。
時には家事の手伝いをする徹は意外に多忙なのだ。
けれどこの日、徹は珍しく日中から自室にいた。
開けたままの襖と部屋の窓から絶え間なく少し強い春風が吹きこんできている。
乾いていて、心地よい風だった。どこからか菜の花の香りが流れ込んできてた。
少し長い前髪が風に煽られふわふわと揺れている。
時折、目に入りそうになるそれを、徹は煩わしそうに肩手で掻きあげていた。
その手とは逆の手には、数日前、菫から貰った四つ葉のクローバーがあった。
根から引き離された葉っぱは、あの時の様な輝きは既に消えうせていて、茎の部分も葉の部分もしんなりと垂れてしまっている。
それでも徹はその四つ葉のクローバーをただじっと見つめたり、撫でてみたりしている。
何故か、その小さな葉が愛おしく思えて仕様が無かった。
小さな小さな、まるで菫の様な葉。
徹はおもむろに立ち上がると、自分の背よりも高い本棚の前まで移動した。
ずらりと並んだ参考書や植物図鑑、そして今はもう呼んでもいない数冊の漫画本。
その中から一番分厚い国語辞典を取り出すと、徹は机に戻りまたクローバーを手に持った。
少しの間それを眺めた後、重い参考書を開くとその間に萎びれてしまったクローバーを挟み込む。
こうしておけばしおりになるのだと、前に楓に教えて貰った事があった。
このままクローバーが枯れて、真っ黒になってしまったら、きっと悲しい気持ちになる様な気がして、徹はそれを半永久的に保管出来る様にする事にした。
愛おしい四つ葉のクローバーを最後に一度、そっと撫でると徹は重い辞典をまた本棚に戻したのだった。
その日は、朝から少し天気が芳しくなかった。
山稜の向こうから、真っ黒な雨雲が押し寄せてくるみたいだった。