ロボットが泣いた日
「雷が……怖いの」
そう呟いたのは、突然降り出した雨から逃れる為に一番近い佐久間の家に二人して飛び込んだ時だった。
「どうして?」
玄関から降り頻る雨を眺めながら、佐久間が静かな声で問う。
「……思いだすの、どうしても」
静かに語られるその声は、ともすれば篠突く雨の音に掻き消されてしまいそうだった。
けれど佐久間は静かに楓の言葉に耳を傾けていた。
まるで、楓の感じる恐怖を押し図ろうとする様な、あるいは共有しようとする様な面持ちで。
少し先で振り続ける雨の冷気が、真夏であるにも関わらず寒く感じて、楓は無意識に自身の両腕を撫でた。
濡れそぼる地面から、何かが迫ってくる様な錯覚を覚えて身が震えたのだ。
見る見る内に広がっていく黒い水溜りの中から、何かが這い出て来てぬっと長い腕を伸ばして人の足を掴み深淵の底へと引きずり込もうとする光景が、不意に楓の脳裏に浮かぶ。
一体いつになれば、この身を切り刻む様な恐怖から解放されるのだろうか。
それとも、これは生き続ける限り背負い続けなければならない十字架なのか。
「――楓さん」
そっと佐久間の手が白い楓の手に触れていた。
「佐久間さん?」
きつく両手を握ってくる佐久間の手が熱く、真正面から見つめてくる視線に息が苦しくなった。
「……僕と、結婚してくれませんか?」
「……え」
瞬間、土砂振りの雨音さえどこかえ遠ざかって気がした。
ただ、懇願するみたいに握ってくる両手と、真っ直ぐに向けられる真摯な瞳に胸が苦しくなって、肺が多すぎる水分に満たされたみたいに息が出来なかった。
こんな自分に、彼はプロポーズしてくれている。
そう理解出来たのは、通り雨が過ぎ去り、空から光が差し込んで世界を白く照らし出した時だった。
「わ、私で……いいの?」
それは佐久間の決心を確認する為の言葉でもあり、今さっき告げられた台詞が幻聴ではなかった事を確かめる為の問いだった。
「っ、楓さんが、いいんです」
今にも泣きだしてしまいそうな顔でそんな事を言ってくれる男を、拒絶する理由なんてなかった。
「すみません、こんな事、急に。……でも、貴女に初めて会った時から、漠然的にですが、この女性と残りの人生を過せたらいいなって、ずっと思っていました。――好きです、楓さん。他の誰でもなく、貴方が」
ああ、何故この人の言葉はこれほど優しく流れ込んでくるのだろう。
もっと早く、この人と出会っていれば……。いや、今までの事がなければ、彼と出会う事もまたなかった。
「ありがとう、ございます。私も、貴方と一緒に、歩みたい」
そう告げるのがやっとだった。
幸福に心が満たされて、勝手に涙が零れ落ちていく。
ポロポロと子供みたいに泣く楓を、佐久間はただ優しく、それでいて愛おしそうに抱きすくめるのだった。
夏が終りを告げると、季節は目まぐるしく巡っていった。
冬の訪れと共に山は雪化粧を施し、凍てつく様な息吹を村の方まで運んでくる。
それほど大きくはない村は、まるで世界から孤立してしまった様にひっそりと息を潜めているみたいだった。
それでも、そこに住まう人々は毎日を忙しなく生きている。
雪が積もれば雪かきをして、作物の様子を見たり世話をしたりと一年中を忙しく働いている。
仕事には、様々なものがある。
それは本当に十人十色で、その土地にはその土地に宛がわれた仕事がある。
都会の人間が毎日を電車で通勤し、四角い箱の様なビルの中で働くのと同じ様に、この土地にはこの土地に見合った仕事がちゃんとある。
そして食料を作り出す人たちは本当に偉大であるのだと、楓はここへ来てよくそんな事を思うのだった。
冬の間も休む事無く働き続けていれば、季節はまた巡って雪解けの春がやってきた。
徹の様子は相変わらずだった。
楓が佐久間との結婚を告げた時も、徹は眉ひとつ動かさず、ただ静かに頷いただけだった。
そして抑揚のない声で、良かったねと、それだけを告げた。
楓は胸は削ぎ落とされていく様な気がした。
この子は、何が起きてもきっと笑いもせず、泣きもせず、ただ世界の変化を冷静に、無感情に見つめ続けるのだろう。
そこに心はなく、まるで無機質なロボットの様にそこにあるだけの存在となる。
それを悲観し、悲壮しながらも、楓は既に諦念を覚え始めていた。
この子はきっと、元には戻れない。
死んだ心は生き返らない。生き物が再び息を吹き返す事がないのと同じく、死んだ心も生き返りはしないのだ。
佐久間と結婚して、喜びと幸せを感じながらも、決して切り離せない悲しみが、その新たな家族の中には物悲しく漂っていた。
佐久間と共に幸せに笑みを零していても、ふとした瞬間に訪れる殺伐とした悲しみが、不意に楓の心を掠めていく。
忘れ去る事の出来ない記憶は尚も楓の中に存在していたし、あの日々に囚われているのは楓も徹も同じだった。
引っ越しをして、新たな家族を得て、自分達は本当に前へ進めているのだろうか。
時折訪れる悲壮感と共に浮かぶ疑問は、皮肉にも幸せを噛みしめる度に色濃く影を落としていく。
決して消し去る事の出来ない罪の意識を、楓と徹は確実に感じ取っていた。
ふとした時に悲しげな表情を見せる楓に、佐久間は気付いていた。不意に訪れる沈黙と、言い様のない虚脱感が家族の中に漂っている事を、ひそやかに皆が知っていた。
いや、一人だけ例外が居る。
佐久間の連れ子である菫。
未だ六歳になったばかりの幼子だ。
彼女は大らかで大人しい女の子だった。
父が再婚すると言った時も、お母さんが出来るの? と嬉しそうに笑みを浮かべていた。
連れ子同士の再婚であるし、初めの内は子供達が戸惑うのではないかと危惧していた佐久間と楓ではあったが、意外にも何の衝突もなく家族として収まってしまった事に少々気抜けした。
もともと、徹と菫は面識があった。幾度か二人で遊んでいる事も知っていたが、こうも容易に馴染んでくれるとは良い意味で予想外だったのだ。
徹は、よく菫の面倒を見ていた。
一緒に遊んでいるというよりは、まるで保護者の様に見守っている、と言った方が正しいかもしれない。
何を話している訳でもない。会話は菫からの一方通行であったが、それでも菫はよく徹にも懐いていた。
楓を本当の母の様に慕っていたし、よく笑う可愛い子供だった。
自分よりも小さくて弱いその存在を、徹はただ冷静に見ていた。
突然出来た妹という存在。
いつも自分と一緒に居る、可愛らしい生き物。
けれどそこに愛情が存在するのか、徹自身分からなかった。
それは無論、楓にも佐久間にも分からない徹の不透明な感情だった。
徹は、菫という義理の妹をどう思っているのか。表情に動きのない少年からは何も伝わり来る事はなかった。
それでも別段、菫を邪険にするだとか、疎遠にするだとか、そういった様子はなく、佐久間も楓も得にそれを懸念する事はなかった。
二つの別々の人生を歩んでいた親子が一つの家族になってから、既に一年が経とうとしていた。
家庭内は順風満帆で、互いに痛ましい過去はあれど今は幸福であると言える様な家族だった。