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黒崎つばき
黒崎つばき
novelistID. 47734
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ロボットが泣いた日

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 仕事に没頭している時、確かに楓は日常のあらゆる事を忘れる事が出来ていた。
 けれど一度家に変えれば不安は荒波の様に押し寄せて、容易に楓という存在を飲み込んでしまう。
 日常が、再び苦痛へと姿を変え始めてい事を、楓は漠然的に悟っていた。
 もう、自分一人では限界なのかもしれない。
 徐々に明るくなっていく外の気配を感じながらも、楓は今にも泣きだしてしまいそうな衝動を誤魔化す様に深く布団へと潜り込むのだった。

「あれ? 寝不足ですか?」
 早朝、開口一番に楓へそう声をかけてきたのは、いつも手伝いに行く畑を一人で切り盛りしている佐久間慎だった。
 未だ年若く、三十を少し出た所だろう。
 少し年下の、自分と変わらない歳ではあったが、まるで一回り以上も年上の頼りになる男性の様でもあった。
「うん、今朝早く目が覚めちゃってね」
 未だ今朝見た夢を口にする事に抵抗があった。思いだすだけでも背筋に汗が浮かぶのだ。
「なるほど、だからクマが出来てるんですね」
「え、うそ!」
「あはは、嘘です。目がとろん、としてたんで寝不足なのかなと」
「もう」
 憎まれ口を叩く年下の男は、歳とは似つかわしくない幼い笑い声を零していた。
 その笑みに、さっきまで背後に張り付いていた嫌な焦燥がふっと掻き消えた気がした。
 世の中には、笑顔を浮かべただけで女性を安心させる事の出来る男性もいるのだと、この佐久間慎に会って初めて知った。
 こんな人と結婚していれば、きっと今も幸せに暮らしていたのかもしれない。
 そんな事を思う様になったのは、つい最近の事だった。
 いつしか、一緒に仕事をしている内、楓はこの佐久間という男に淡い恋心を持ち始めている自分を感じていた。
 そしてまた、佐久間も自分に好意を抱いてくれている。
 佐久間とは、境遇も似通った所がある。
 数年前に妻が他界した佐久間は男手ひとつで幼い娘を育ててきた。
 都内で営業マンをしていた佐久間ではあったが、妻が事故死した少し後、実家であるこの田舎へと戻ったらしい。
 実家へ戻って直ぐ、既に他界していた父を追う様に母も他界した。
 残されたのは、この広大な果実園。
 娘は未だ五歳の幼子だった。
「そういえば、徹君の様子はどうです?」
「……うん、変わりなし、かな」
 二人して脚立に登りながら、一つ一つ丁寧に桃を収穫していく。
「そっかー。子供は多感ですからね、一度負った深い傷は中々元に戻らないんでしょうね」
「そうね……」
 佐久間の声色は、鷹揚だった。
 とても他人事とは思えない親身な口ぶりで、優しい言葉をかけてくれる佐久間に楓はよく相談事を打ち明けていた。
 幼い子供を持つ親同士、話す事も多く、また共感する事も多々ある。
 彼の傍は酷く居心地がいい。そう感じる様になったのは、佐久間と仕事をする様になって少し経ってからの事だった。
 桃の葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日が眩しい。
 甘い桃の香りを感じながらも、楓は大きな目を細め、切なげな表情を浮かべながらまた一つ、桃を籠へ入れながらも、佐久間と初めて会った時の事を思い出す。
 出会ったばかりの佐久間は、今とは違い余り笑わない人だった。
 いや、本人は笑みを浮かべているつもりなのだろうがその顔はまるで苦痛にゆがんだ歪な表情で、楓は彼の中に渦巻く、けっして軽くはない仄暗い絶望を見た。
 何かに打ちのめされた様な彼の表情を見る度に、胸の奥が軋む様に悲鳴を上げる。
 この人の笑みを取り戻したい。
 そう思ったのは、本当に何気ない会話をしている時だった。
 幾度となく見せられる佐久間の笑みは、いっそ痛々しい程の絶望と悲壮感を楓に思わせ、それに比例する様に楓もまた痛みを覚える。
 彼は優しい。歪だけれど必死に笑みを浮かべるのは、私に無駄な心配をさせない為だ。
 易々と人に語れない過去を隠して、我武者羅に日々を過ごす彼は、まるで傷つき伏せる捨て犬の様にさえ見えた。
 初めて彼を見たのは、燦々と太陽の光が降り頻る果実園の中だった。
 木漏れ日の中に佇む人影は、まるでこの莫大な世界の中、たった一人取り残された存在の様にも思えた。
 明るい筈の日差しの下で、彼の周りだけがぽっかりと暗く、まるで唐突に景色の中に穴が空いている様でもあった。
 楓は、その男から目が離せなくなった。
 彼は自分と同じだ。この莫大な質量を持つ世界の中で迷子になった哀れな生き物。
 朝も夜も、その境さえ見失い、彷徨う子羊の様に無防備で、それでいて無垢であり愚かしい。
 ああ、此処には自分と同じ生き物がいる。
 それは安堵だったのか、或いは憐れみだったのか。
 ひたりと男の姿を見つめる黒目がちな瞳は、縋りつく様な愛おしさを孕みながら、ただ男の姿を網膜へと刻み込む。
 やがて、木漏れ日を受けながら天を仰いでいた男の顔が一人の女へと向く。
 そして男は、歪な笑みを浮かべながら女を見た。
 



 ***



 私は、まるで逃げる様にこの土地へと舞い戻っていた。
 いや、文字通り逃げてきたのだ。
 殺人を犯した私は、既にあの町に住み続ける事が出来なくなっていた。
 警察に疑われている、という訳ではない。
 それでも、一度や二度ではなく人を殺めてしまった事実は、心底に私という矮小な男を追い詰めた。
 同じ土地に生き続ける事が苦痛でもあった。
 そして、いつしか私は生まれ育ったこの町へと戻っていた。
 もっと早くに戻っていれば、あんな絶望を感じる事もなかったのかもしれない。
 けれど、両親の反対を押し切って家を出た私には、容易に実家へ戻る事が出来なかった。
 しかし、その両親も既に他界している。
 この土地で、やり直したいとでも思っているのだろうか。
 何と愚かで、馬鹿な男なのだろう。
 一度犯した罪が消える事などありはしない。
 決して逃れられない罪の意識を一生をかけて背負い続け、そしてその重みの耐えられなくなった時、私はきっとまた人を殺す。
 それも、力のない子供ばかりを。
 殺したい訳ではない。けれどそうしなければ、私はこの世界と戦う事が出来ないのだ。
 それだけが、私に残された存在意義であり、使命であり、運命である。
 世界の惨酷さを思い知り、何度でも絶望の淵を彷徨い歩く私は、既に狂った精神の中で己という存在を冷静に見つめていた。
 
 ***

 夏の日中は、よく雨が降る。
 気まぐれな夏の空は、人の事情などお構いなしに雨を降らせては去っていく。
 まるでひと時の幻の様な、嵐が勢いよく過ぎ去っていく様な、どこか現実味のない雰囲気を作りだし、そして掻き消える。
 凄まじい熱量に陽炎を作っていた畦道にも、しっとりとした刹那に涼しげな風を送る。
 真っ青だった空はいつの間にか黒い雨雲に覆われ、身構える間もなく大粒の雨が降り出したかと思えば、次の瞬間にはまた違った表情をして人々の上空を覆っている。
 時折、通り雨に乗って雷鳴が聞こえてくる時があった。
 それは山の向こう側からの様でもあり、遥か彼方、地平線の更に遠い所から聞こえてくる様でもあった。
 雷鳴の音は、常に楓へ恐怖を与えた。
 稲妻が走る度、体の芯から震えあがる気がした。
 未だ、あの日々に囚われている。
作品名:ロボットが泣いた日 作家名:黒崎つばき