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黒崎つばき
黒崎つばき
novelistID. 47734
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ロボットが泣いた日

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 肺いっぱいに吸い込む空気はどこまでも澄んでいて、まるで身体の中から作り変えられていく様でもあった。
 近くに学校はなく、徹もまた楓と一緒に家で過ごす事が多かった。
 田舎での暮らしが落ち付いてくると、徹は楓の勧めで通信の勉強を始めた。
 何も不自由なくすごす内、徐々にあの日まで感じていた絶望は薄れていって、まるで遠い記憶に感じられる様になっていた。
 あれは、悪い夢だった。
 心に負った傷さえ癒してくれる自然の優しさに、二人はただ毎日に充足を覚えていた。

 徹という少年は、よく母親の言う事を聞く良い子だった。文句を言う事もなく楓の手伝いを献身的に続ける徹は、それでも未だ表情の変化を見せない。
 幼い子供にとって、実の親から受けた傷はそう簡単に癒えるものではないのかもしれない。
 そう、焦る事は無い、ゆっくりと治していけばそれでいい。
 けれどそう思う反面、楓には焦燥もあった。
 徹は、ただ毎日を消費する様に生きている。その感覚は尚も変わらず楓を不安にさせた。
 何かが足りないのかもしれない。失ったものの大きさと、与えるものの大きさに酷い落差がある気がして、楓は時折胸を焼かれる様な苦しさを覚えるのだった。
 自分一人では、この子をあの日々の絶望から放ってやる事は出来ないのかもしれない。
 ここでの暮らしは確かに充足に満ちていたけれど、もしかしたらそう感じているのは自分だけで、あの子は何も感じてはいないのではないか。
 あの子は感情と言う人間の持つべき感覚を、一体どこで落としてきてしまったのか。
 もしかしたらそれは、決して手の届かない深淵の奥底へと墜落してしまっているのかもしれない。
 覗き込む深淵の底には、そっと漆黒の中からこちらを見上げる深淵の目がある。
 まるで徹は、常にその深淵の目をじっと身動きもせず見つめている様な気がして、ぞっとする様な冷たい戦慄の中へ楓を突き落とすのだった。
 
 夏になると、楓はよく村の手伝いに出る様になった。
 果実を作る事が盛んな村では、どこも人の手が足りていない。
 次々と生えてくる雑草は容赦なく果実の木へと絡み、その栄養を吸い取ろうとする。それを排除するだけでも大変なのに、どこからか飛んでくる羽虫や山から下りてくる野生動物からも果実を守らなければいけない。
 家の掃除が落ち付いてからというもの、楓は毎日を忙しなく働いていた。
 働く事で、募る不安感から逃げていたのかもしれない。
 徹は、日中一人で過ごす事が多くなった。
 平屋の広い家は古かったが、作りはしっかりとしていて裏庭には池もある。
 池の中には蛙やメダカが住んでいて、そこに毎日餌を投げ込むのが徹の日課にもなっていた。
 青々とした草木は生い茂り、夏の日差しは強烈だった。
 それでも都会で感じる夏の暑さとは違い、この土地で感じる暑さはどこか清々しい心地にもさせた。
 乾いた風が心地よく、どこからか香ってくる花の芳香に胸の奥がじわりと蕩けていく様だ。
 日差しが真上に差しかかる頃、徹はおもむろに家の中へと戻っていく。
 この時間になると、楓が一度戻って来て昼食の用意をしてくれるからだ。
「おまたせー、今日は冷やし中華にしたよ」
「うん」
 台所には既に楓の姿があり、両手に白い皿に盛った冷やし中華を持っていた。
 土間になっている台所から居間へ上がると、楓は低い長方形をしたテーブルの上へ二人分の冷やし中華を置いた。
「今日は桃の収穫だったから、少しお裾わけ貰ったの。後で剥いてあげるね」
「うん」
 用意された冷やし中華を口へと運びながら、徹は小さく頷く。
 徹は桃が好きだった。引っ越す前も、時おり楓が買ってきてくれた。
 その度に徹は喜びに笑みを浮かべていたけれど、この時の徹はただ無表情に一度頷いただけだった。
「……」
 不意に、母が心配そうにこちらを見つめている事に気づき、顔を上げた。
「……ねえ、徹」
「……」
 アーモンド形をした茶色い目が、徹の中を探る様に見つめている。
「まだ……――。……ううん、何でもない」
 何かを言い掛けた楓の赤い唇は、けれどそれ以上の言葉を綴る事はなかった。
 弱々しく首を振ると、楓はか細い声でごめんね、と掠れ気味に呟くのだった。
 そのまま押し黙ってしまった楓は、何かを深く熟思している様でもあり、何かを憂いている様でもあった。
 そんな母の様子を感じながらも、徹は何も言わずただ事務的に冷やし中華を口へと運ぶ。
 その様は、まるで機械的にも見て取れて、楓は余計に憂いを帯びた面持ちになるのだった。
 ただ生きる為だけに食事を撮り、暗くなるから眠る。徹の全ての行為は、感情的ではない。
 人間が持つべき感性、感情、欲望さえ、少年から感じ取る事が出来なくなっていた。
 きっと、今のこの子には美しいものを見ても美しいと思う心も、悔しさに涙を零したり憤ったりする感情もないのだ。

 ロボット。

 誰かが背後でそう囁いた気がして、楓はぞっと身を震わせた。
 背後を振り向いてはいけない様な強迫観念が不意に楓の全てを飲み込んだ。
 きっと、見てしまったら最後、自分もまた無でしかない深淵の底へ引きずり込まれてしまう。
 どくどくとこめかみが脈を刻んで、冷たい汗が全身を濡らしていく。
 見てはいけない、見ては駄目だ。
 必死に自分に言い聞かせるその声は、呪文の様に自身の中を回り続ける。
 私は前だけを見ていなければいけないのに、あの子の為に、背後を降り返って立ち止まっている暇はない。
 背後に感じる気配は少しずつ近づいている。
 誰かの息遣いが、直ぐ背後にあった。
 全身を濡らす発汗は、まるで真夏の炎天下で何時間も畑作業をしている時の様に酷くて、流れ落ちる滴が幾重も筋を作っている。
 更に気配が近づいていた。
 湿った吐息が項にかかる。
 ぞっと肌が粟立って、体の芯から発生する震えを抑える事が出来ない。
 大丈夫だ、振り向きさえしなければ、きっと?これ?はいなくなる。
 心臓が戦慄いている。喉がからからに乾いて呼吸さえ乱れていた。
 言い様のない恐怖が、全身に張り付いて身動きなんて取れる訳もなかった。
 早くいなくなれ、早く、早く。
(――お母さん)
「――――っ」
 嫌という程に聞き慣れた声だった。
 その声を聞いた時、ついに楓は背後を振り返ってしまった。
 そこに立っていたのは、まるで漆黒の深淵の様な黒い双眸をした、責める様なあの子の姿だった。
「――きゃああ!」
 それは見紛う筈もないわが子の姿なのに、怖くて、恐ろしくて、その恐怖から逃れたくて、楓は長い悲鳴を上げた。
「――……ッ」
 同時、開いた瞼の先には見慣れた高い天井があった。
「……夢」
 未だ薄暗い室内。外は朝焼けにもなっていない。
 目が覚めた瞬間、どっと全身が弛緩して冷や汗が吹き出した。
 妙にリアルな夢だった。まるで、ついさっきいまで全く違う次元に居たかの様な錯覚が、楓の全てを蝕んでいた。
 どうかしていると思う。
 しかし、現実に追い詰められているのは明らかだった。
 不安を掻き消す様に、誤魔化す様に血眼になって働いて、それでも胸の奥に巣食う恐怖を振り解く事は出来ない。
作品名:ロボットが泣いた日 作家名:黒崎つばき