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黒崎つばき
黒崎つばき
novelistID. 47734
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ロボットが泣いた日

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 放課後の教室が異様なほどに真っ赤に染まっていて、嫌なものを感じた。
「私も気を付けて様子を見てみようと思いますので……」
「分かりました……。ご迷惑をお掛けします」
 そう言うのがやっとの事だった。
 先ほど感じた予感に打ちのめされて、酷い気分だ。胃が重たく沈んでいく様で、嘔吐感が這い上がる。
 あの子は、あの人の所為で身体だけでなく、心にまで傷を負ってしまったのだ。
 感情を殺してしまう程の深い傷を。
 何故、もっと早くに気付いてやれなかったのか。あの子は苦しんでいるのに。
 いや、既にその苦しみさえ、あの子の中では存在しない感情となってしまっているのだろうか。
 そういえば、あの子が最後に泣いたのは、いつの事だっただろう。
 最後に泣いた日、最後に笑った日は、いつだったか。
 あの子は一体いつから、感情を表さなくなってしまっていたのだろう。
 おぼろげな記憶を必死に手繰り寄せ、痛みに支配された日常を苦痛の中で思い起こす。
 壊れてしまった家の中、毎日の様に痛みと恐怖に晒され続けたあの子の心は、既にボロボロに壊されてしまったのではないか。
 それほど裕福ではなかったけれど、それでも少し前まではそれなりに幸せだと感じていた。
 恋愛の末に結婚して、子供を産み、日中は仕事に出て。
 どこまでも普通で、それでも満たされた日々だった。
 あの夜からだ、全てが変わり果ててしまったのは。
 迸る雷が夜の空を割る様にして走り抜ける、嵐の夜。
 あの人は死人の様な顔をして帰って来た。
 この世に絶望していたのか、あるいは絶望している事にさえ気付かない程に茫然自失していたのか。
 初めて見るあの人の顔に、胸の奥が嫌な音を立てて悪い予感を連れてきた。
「……会社が……、倒産した……」
 掠れて、震えていた声。まるで枯葉が舞う様な、音の様にも聞こえたその声を、きっと一生忘れる事は出来ないだろうと、ぼんやりとそんな事を思った事を覚えている。
 暗い台所で、私達はただ茫然と、鳴り響く雷の音を聞いていた。
 雷が突如として空を壊した様に、私達の日常もまたあの夜に壊れてしまった。
 あの人は、私達に暴力を振るう酷い人。けれど、あの人があの夜に感じた絶望を思うと、私はあの人の全てを否定する事が出来ない。
 それは同情でもあった。あの人は、私達に暴力を振るうという行為でしか、自分を維持する事が出来ない可愛そうな人でもあるから。
 だから私は、ひっそりとあの人を蔑んでもいる。
 一人では生きていく事も出来ず、誰かを傷つけなければ自分さえ見失ってしまうどこまでも弱い男だと、内心で嘲る事で、私もまた私を保っている。
 そこには、奇妙な均衡さえ存在しているのかもしれない。
 ならばあの子は?
 あの子は一体、何をもって自分を保てばいいのだろう。
 幼い子供には、心の安定をはかる事など出来ない。
 外部から与えられる傷は、瘡蓋になる前にまた新たな傷を連れて来てはその傷口を深くする。
 自分では治す事も出来ない傷口を、何度も何度も抉られて、壮絶な痛みはいつしか麻痺さえ起こしてしまうのではないか。
 そして訪れる無という感覚に、痛みと恐怖に晒され続けた心は閉ざされる。
 私は、愚かにも他者に指摘されて初めてあの子の心が死に向かっている事に気付いた。
 このままではいけない。
 私が何とかしなくては、あの子はきっと取り返しのつかない所まで落ちてしまう。
 守らなければ、あの子を傷つける全ての存在から。
 けれどどうすればいい?
 世界はただ漠然と広くて、私はちっぽけで非力過ぎる。
 あの人がいなくなれば、あの子は救われるのだろうか。
 そんな事を思う様になってから数日後、あの人は突如としてこの世界から消えた。
 仕事から帰ってきた私の目の前に、あの人の異様な死体と、そしてあの人をただ寡黙に見下ろしていたあの子の姿があった。
 私は不思議と驚きよりも安堵を最初に覚えていた。
 ああ、終わったんだど、漠然とそんな事を思った。
 鳴り響く雷の音は、あの夜と同じ劈く様な轟音だった

 絶望が渦巻くあの家を置き去りに、二人きりになった母と子は、遠い田舎町へと引っ越してきた。
 ここには楓の実家がある。とはいえ、既に数年前に両親は他界し、平屋の一軒家だけが残っていた。
 両親の保険金で維持していた家ではあるが、手入れなどされておらず、平屋の古い家は荒れ放題だった。
 二人して引っ越し初日から大掃除をする羽目になった。

「楓ちゃん、戻ってきたのかえ」
 家の全ての戸を開け放ち、長い板張りの廊下を必死に箒で掃く楓に掛かった声。
 楓にはその主が誰であるのか直ぐに悟る事が出来た。
「……おばあちゃん」
 中庭にいつの間にか立っていた小さな老婆を見るなり、楓は胸の奥が切なく打ち震える感覚に支配された。
 酷い郷愁が押し寄せて、思わず目に涙が溜まる。
「よう、帰ってきたなあ」
「おばあちゃ……」
 七十を超えているであろうその人物は、目の前の畦道を挟んだ向かいに住む梅という老婆だった。
 幼い時からよく遊んでくれた年老いた老婆は、最後に見た時よりも更に老け込んで、一回り小さくなってしまったみたいだった。
 髪も、楓の記憶では黒髪も混じっていた筈だが、久しぶりに見る梅の髪は全てが白く統一されてしまっている。
 それでも、その垂れ下がった優しげな瞳は変わる事無く楓を見て、そしてお帰りと、静かにそう告げていた。
「梅ばあちゃんっ……」
「おやおや、楓ちゃんは昔から泣き虫だねえ」
 あずき色の割烹着を着た梅に、楓は縋りつく。そして長く流す事のなかった涙が、頬を伝い落ちていった感触に、ああ、本当にこの土地へ帰って来たのだと深く実感する事が出来た。

 *** 

 ようやく寝床だけを確保出来たのは既に月が真上を通り過ぎた頃合いだった。
「疲れたでしょ、簡単なものしか作れなかったけど、夕飯にしましょう」
「……うん」
 にっこりとほほ笑みながら、楓は優しげに徹を見た。
 その顔は、長く続いていた絶望からやっと解放されたという安息と安堵を浮かび上がらせている。
 夕飯はご飯とみそ汁、そして茄子の炒め物と質素ではあったけれど、二人は緩やかでどこまでも静かな夜を楽しんでいた。
 風に乗ってどこからか聞こえてくる夜虫の鳴き声が、まるで今まで住んでいた世界とは全く違う世界を思わせた。
 けれど、徹の顔は相変わらず感情の動きがない様だった。
 楓は密かにそれを危惧しながらも、きっとこの地で落ち付けば、この子の感情も正常に戻るだろうと信じて疑わなかった。
 山奥の田舎での暮らしは、ただ静かで、どこまでも人の心を癒していく。
 死んだ健の生命保険のお陰でそれ程暮らしは苦しくなく、母も殆どを少年と二人、家で過ごしていた。
 朝は早くから起床して、家のあちこちを掃除し、荒れ放題の広い庭の手入れをする。
 季節の花を植えて、初夏へと続く季節を楽しんだ。
 山々に囲まれた小さな村は、二人きりの親子に優しくしてくれたし、元々がこの地で生まれた楓にとっては、とても暮らしやすい土地でもあった。
作品名:ロボットが泣いた日 作家名:黒崎つばき