ロボットが泣いた日
学校に居る間でさえ父の影が纏わりつき、平穏などどこにもなかった。
痛む身体は毎日同じで、赤黒い痣をクラスメイトに見られては後ろ指を指される毎日だ。
前に、担任教師に聞かれた事がある。
その怪我はどうしたの?
優しげに問う女教師の瞳の中には、隠し切れていない困惑があった。
きっと、先生は気付いていた。
少年が家庭内で暴力を受けている事を。
しかし徹は何も言いはしなかった。いや、言えなかった。
もし今起きている事をこの先生へ討ち明けたとしても、恐らく何も変わりはしないだろうという諦めと、そして恐怖が徹の中にはあった。
もし教師に告げ口をした事が父に知れたらと思うと、恐ろしくて吐露する事など出来なかった。
徹と楓は、確実に父に支配されていたのだ。
「ねえ、この間も怪我してたよね? ここも……、どうしたの?」
教師からの二度目の問いかけだった。
放課後の教室に残された徹は、まるで尋問の様だと思った。
何故、言いたくもない事をこの教師は自分に言わせようとするのか。それで何かが変わる訳でもないのに。
「……言ったら、殺してくれるの?」
「え?」
自分の代わりに、あの父親を殺してくれる筈もないのに。
「あ……」
徹はランドセルを掴み上げると逃げ出す様に教室を走り去った。
先生は追ってこなかった。追う事が出来なかったのかもしれない。所詮は、その程度の人なのだ。
誰にも頼る事なんか出来ない。この地獄の様な日常から抜け出す事なんか出来やしない。
しかし、それは絶望ではない。
父が変貌して数年。それは寒い冬の事だった。
徹の心は既に変わり果て、感情の起伏さえなくしていた。
全てが喪失の中へ消えていく。怒りも悲しみも。泣く事さえ出来なくなった。
痛みは相変わらず日常へしがみ付き、もはや恐怖さえ薄れていく日々の中、それは突如として起きた。
寒い日だった。
灰色の空は寒々としていて、吹き付ける風は薄い刃の様でもあった。
犬が吠えている。何かを威嚇する様に、何かを恐れている様に。
低い空がいつしか雨を落としはじめていた。酷い雨音が世界を包んでいる。
次いで、劈く様な轟が空を走り抜ける。落雷だろうか。
そんな事を呆けた頭で思いながらも、徹は目の前の光景をただ寡黙に、無感情に見つめ続けていた。
犬は相変わらず吠え続けていたし、全身を濡らす雨も身を切る程に痛かった。
それでも徹は雨にうたれたまま、一歩もその場を動けないでいた。
全てが終わったと思った。
言い様のない解放感、そして充足。
眼下に横たわる人影はピクリとも動かず、ただ醜い亡骸を徹の前へ横たえていた。
父が死んだ。それは何とも呆気なく。
異様な方向へ曲がった首が、まるで壊れた人形の様に歪で、身体はうつ伏せに倒れ込んでいるのに、頭だけは天を仰いでいた。
その剥き出しの目が、じっと徹を見つめている。無論、その双眸には何も映ってはいないのだろう。
彼の世界は突如として閉ざされたのだ。この世から排除された存在。その骸だけが徹の前に残っていた。
じわじわと徹の中を埋めつくしていく解放感。
これでもう、自分も母も、あの大きな手に殴られる事はない。もう、痛みに苦しむ事もない。
徹は紛れもない歓喜を覚えていた。唐突にこの世界から弾かれ、命を失った父の亡骸をいつまでも見下ろしながら、そして無表情のまま、冷たい雨に打たれ続けていた。
それから、どれくらいの時間が経ったのか、徹は楓の腕の中にいた。
数十人の警察が訪れ、家の中や父が転落したアパートの階段付近を捜査しているらしかった。
徹もまた刑事と名乗る男に話しを聞かれたが、何も答える事は出来なかった。
何も言葉にする事が出来なかった。
父が死に、この世から消えた事への喜び以外、徹は何も感じなかったが為に。
何度も事故の様子を聞いていた刑事も、呆けたままの徹に諦めた様に母親に頭を下げ去っていった。
結局、健の死は事故であると断定された。警察は母の楓を疑っていた様だが健が死んだ時、家には徹しかいなかったし、アリバイもあった。
現場の状況を見ても足を滑らせた事による事故死である可能性しか出てこなかったのだ。
その日は激しい雨が降っていたし、アパートの階段は鉄製で、滑り止めもついてはいなかった。
以前にもアパートの住人が階段から落ちて大怪我をした事もあり、今回も不注意による事故であると断定されたのだった。
徹と楓は、未だに健が死んだ事実を上手く飲み込めないでいた。
突如として世界は、痛みに支配され続けていた親子を絶望の淵から解放したのだ。
毎夜の様に酒を飲み、暴力を振るい続けていた父親の気配は唐突に消えうせ、家内はただ静かに沈黙した。
「……引っ越し、しようか」
楓がそう呟いたのは、健が死んだ五日後の事だった。
ここでは、色々な事が起き過ぎた。家のあちこちに刻み込まれた記憶と歳月は、二人にとって苦痛でしかなかった。
いつの日からか、表情を失くした我が子が気がかりで仕様が無かった。
まるで、感情が抜け落ちてしまったみたいに、息子は笑う事も、怒る事もしなくなってしまった。
話しかければ相槌は返ってくるものの、それだけだ。子供であるが故の我儘も反発もせず、まるで日々を消化する様に生きている。
一度、学校へ呼び出された事があった。
担任の女教師は、随分と険しい表情をしていた。
「今日、息子さんが他の生徒と喧嘩したんです」
そう口火を切られひやりとした。まさか相手に怪我でもさせたのかと危惧したのだ。
けれど教師が口にした内容は、予想外のものだった。
「あの、御気を悪くされないで下さいね……。息子さんは少し、感情の起伏が少ないと申しますか……」
「……どういう事でしょう?」
正面に向かい合う形で顔を見合わせながらも、女教師は少し逡巡しながらも更に言葉を綴った。
「怒りという感情が、見当たらないんです」
「え? けれど、喧嘩をしたんですよね?」
教師の言葉が上手く理解出来なかった。
確かに息子はお喋りな方でもないし、余り自身の感情を露わにする様な子でもない。しかし、怒りが無いというのは、一体どういう事なのか。
「相手の子に、幾ら罵られても、殴られても、何もやり返さないんですよ。……それどころか、相手が自分を攻撃している、という事に気付いていない様な……」
何かが、じわりと押し寄せてくる様な感覚に支配された。微かに感じた予感があった。
まさか、そんな訳ない。そう否定しても一度感じた予感は徐々に形を成していって、確信へと姿を変えようとする。
「感情が、欠落している可能性もあるのではないかと……」
「……」
感情の欠落。その言葉にふっと背筋を冷たいものが突き抜けていく。
何故か酷い気持ちにさせられた。あの子は、私が思っている以上に危うい状況なのではないか。
「ですから、喧嘩とは申しましたけれど、喧嘩にもなっていないというか。……結局、相手の子は余りにも息子さんが反応を示さないものだからその内に諦めてしまった様ですが」
「そう、ですか……」
額に冷たい汗が浮かんでいた。季節は既に晩秋だというのに。