ロボットが泣いた日
ロボットが泣いた日
ここは、どこだっただろう。
確か、家に帰る途中であった筈だ。
真っ暗な景色の中、街灯の一つもない光景。
妙に広い空間だ。そしてどうやらここは外であるらしい。
らしい、というのはここへ来た記憶も、その道筋さえも覚えていないからだ。
いつから降っているのかも分からない雨に全身が濡れている。
初冬の雨は心底に体を冷やし、吐く息は凍りつく様に白く舞い上がっていた。
傘を持っていないか、自身の手を意識した時、何だかおかしな感覚を覚えた。
まるで映画の途中から再生された場面の様に断片的な光景の中、私は自身の両手にこびり付いている何かに気がついた。
生暖かく、滑った様な感覚が、悴んだ指を擦り合わせる度に伝い来る。
これは何なのか。確認しようと両手を広げて視線を落とすも、暗がりの中ではよく分からなかった。
そして更に落とした視線の先、何かがある。
それはおよそ生き物とは思えない歪な形をしていた。
しかしぼやける輪郭の中、微かに見て取れたその物体には、大きな目玉が付いている様だった。
更に目を凝らしよく見る。
子供の顔だ。
大きな目が空虚に見開かれている光景にぞっとした。
嘔吐感が這い上がり、思わず口を手で覆っていた。
同時、悟った事がある。
ああ、またやってしまったのかと。
記憶の欠片が少しずつ集まって来て、ここにたどり着くまでの経緯が明らかになっていく。
そうだ、私はまた、子供を殺してしまった。
途切れ途切れだった記憶の断片が、何かに吸い寄せられる様に集まりだす。
フラッシュバックの様に目まぐるしく浮かび上がる光景に眩暈さえ覚えた。
広い公園、真ん中に噴水がある住宅地から離れたそこに、子供がいた。
何をしているの? そう問う私に、子供は泣きながら迷子なのだと告げた。
そうか、それは可哀想だ。
そう思った感情に嘘はなかった。
けれど、膝を抱えいつまでの泣き続けるその子を見ていたら、体の奥底から湧きおこる嗜虐心に襲われた。
循環する血液がふっと脳に集まり、酷い熱量に苛まれる。
この子は、何故迷子になってしまったのだろう。
この子は、きっと世界から見放された子なのだ。
世界はいつだって惨酷で、それ故に儚くも尊い。
全ての加護から見放されたこの子は、きっと世界にも見捨てられた存在に違いない。
いつだって惨酷な世界は、子供一人さえ救う事なく漠然敵に人間の前に横たわっている。
何故、そんな事を思ったのか分からない。
ただいつも、この感覚に囚われる時、決まって私は感じるのだ。
私は、絶望していた。
この世のあらゆる存在、そして秩序に。
神と呼ばれる存在も信じてはいない。
この世界はただ無機質で、何の意味も持たないモノでしかないのだ。
泣き続ける子供、降り出した雨。
湿っていく世界の気配と、冬の容赦ない息吹が私という人間を悉くに変貌させていく。
善と悪の境界さえ曖昧な輪郭の中に蕩けだし、混じり合い、それは意味のない異物へと姿を変えた。
世界に絶望するその刹那、私はいつも冷静に変貌していく自分を感じている。
それは諦念にも思えたし、抗い難い快楽にも似ていた。
解き放たれていく、この、惨酷な世界から。
そして私は愚かにも、自分にはこの可哀想な子供を救う義務があるのだと思いこむのだ。
この子を、こんな世界に存在させ続けるのは余りに酷だと思うのだ。
ならば解放してやればいい。
この世界の全ての秩序から、道徳から、生という固定観念から。
私の手には小さなナイフが握られている。ポケットにすっぽりと収まってしまうくらいの、小さなナイフ。
それはまるで、子供を殺す為だけに用意されていた様に、私の手の中にあった。
俯いたまま泣き続ける子供、強まっていく雨脚。
暗い景色の中は、まるで莫大な質量を持った空間にも、酷く狭い空間の様にも思えた。
振りかざされるナイフは、まるで凶暴な狼の牙の様に光のない夜の中でも不思議と煌めいていた。
***
どこからが、絶望の始まりだったのか、思い出す事さえ面倒だった。
ただ世界を恨み、自身の生を恨み、一方的な暴力を与えるその存在に殺意を抱いた。
全身が粉々に砕かれる様な痛みの中、徹という名の少年は歯を食いしばり耐え続ける。
徹の父、健は酷い父親だった。
会社が倒産して、人が変わってしまったのだと母の楓は言った。
酒を飲み、パチンコをして、そして自分を殴りつける両の手。
会社が倒産したら、何をしても許されるのだろうか。誰かを傷つけて踏みつけて、ぼろぼろの雑巾の様に扱ってもいいのだろうか。
そんな事を思ったのは、父親に殴られて初めて血を吐いた時だった。
胃の中が重たく痛み、目の前が霞んで酷い眩暈に襲われた。
真っ黒い血を吐きだしながら、徹の中で何かが歪んでいく。
それは世界への絶望だったのか、はたまた許容出来なくなった憎しみが心を曲げた音だったのか。
ただ、その時から徹の中に根付いたのは、紛れもない、実の父に対する殺意だった。
沸々と込み上げる怒りは、徹の目の前を赤い闇で覆い尽くした。
激情の様であったそれは、不思議と徹の心を安定させる。
紛れもなく浮き彫りになった父、健への殺意。その想いがまるでこの世の真理の様に徹を充足させた。
父を殺す。
その揺るがない目的が徹の核となり、父の一挙一動に恐怖し震えていた心がひたりと音を立てて安定した気がした。
その日は、酷く寒い日だった事をよく覚えていた。
徹の指先は赤く晴れ上がり、悴んで感覚さえ失っていた。
かさつく空気が悉くに徹の体内に蓄積された水分を奪っていく。
乾いた大地を割り、根こそぎに生き物を殺していく枯渇と寒冷が、心底に徹という少年を惨めにさせた。
殴られた頬が痛い。
赤黒く晴れた左頬だけが異様な熱を宿していた。
寒い部屋の中で、徹は膝を抱え暗くなりつつある冬の黄昏の中、息を潜めていた。
ただじっと、呼吸だけを繰り返す。
自分が生きているのか死んでいるのか、その確かな感覚さえおぼろげで、頬に走る痛みだけが真実の様にさえ思えた。
もはや何度、殴られたのか分からない。今日はまだ頬だけだったが、また夜になればきっと新たな痛みを与えられるのだろう。
そしてこの痛みを知っているのは徹だけではない。
徹の母、楓もまた、この突き抜ける様な痛みに晒されている。
いや、きっと母は自分以上にもっと痛い思いをしているに違いない。
母はいつも、自分を守ってくれていたから。
だからこそ徹は、父を心から憎いと思った。
いつも酒を飲み、いやらしい笑みを浮かべて自分や母を殴る父の手。きつく握りしめられるそれは、何度も何度も自分達を痛めつける。
少し前までは、こんなではなかったのに。
そんな数年前の優しい記憶は、既に徹の中で息絶えていた。前は優しかった父。その面影も思い出も荒れ狂う日常の中、掻き消えていった。
憎しみだけが少年を育てていた。壮絶な日常は、いつしかあたり前の日常になり目の前に横たわる。
母は毎日泣いていた。傷つき、涙を零し、心を削り落していく。
ここは、どこだっただろう。
確か、家に帰る途中であった筈だ。
真っ暗な景色の中、街灯の一つもない光景。
妙に広い空間だ。そしてどうやらここは外であるらしい。
らしい、というのはここへ来た記憶も、その道筋さえも覚えていないからだ。
いつから降っているのかも分からない雨に全身が濡れている。
初冬の雨は心底に体を冷やし、吐く息は凍りつく様に白く舞い上がっていた。
傘を持っていないか、自身の手を意識した時、何だかおかしな感覚を覚えた。
まるで映画の途中から再生された場面の様に断片的な光景の中、私は自身の両手にこびり付いている何かに気がついた。
生暖かく、滑った様な感覚が、悴んだ指を擦り合わせる度に伝い来る。
これは何なのか。確認しようと両手を広げて視線を落とすも、暗がりの中ではよく分からなかった。
そして更に落とした視線の先、何かがある。
それはおよそ生き物とは思えない歪な形をしていた。
しかしぼやける輪郭の中、微かに見て取れたその物体には、大きな目玉が付いている様だった。
更に目を凝らしよく見る。
子供の顔だ。
大きな目が空虚に見開かれている光景にぞっとした。
嘔吐感が這い上がり、思わず口を手で覆っていた。
同時、悟った事がある。
ああ、またやってしまったのかと。
記憶の欠片が少しずつ集まって来て、ここにたどり着くまでの経緯が明らかになっていく。
そうだ、私はまた、子供を殺してしまった。
途切れ途切れだった記憶の断片が、何かに吸い寄せられる様に集まりだす。
フラッシュバックの様に目まぐるしく浮かび上がる光景に眩暈さえ覚えた。
広い公園、真ん中に噴水がある住宅地から離れたそこに、子供がいた。
何をしているの? そう問う私に、子供は泣きながら迷子なのだと告げた。
そうか、それは可哀想だ。
そう思った感情に嘘はなかった。
けれど、膝を抱えいつまでの泣き続けるその子を見ていたら、体の奥底から湧きおこる嗜虐心に襲われた。
循環する血液がふっと脳に集まり、酷い熱量に苛まれる。
この子は、何故迷子になってしまったのだろう。
この子は、きっと世界から見放された子なのだ。
世界はいつだって惨酷で、それ故に儚くも尊い。
全ての加護から見放されたこの子は、きっと世界にも見捨てられた存在に違いない。
いつだって惨酷な世界は、子供一人さえ救う事なく漠然敵に人間の前に横たわっている。
何故、そんな事を思ったのか分からない。
ただいつも、この感覚に囚われる時、決まって私は感じるのだ。
私は、絶望していた。
この世のあらゆる存在、そして秩序に。
神と呼ばれる存在も信じてはいない。
この世界はただ無機質で、何の意味も持たないモノでしかないのだ。
泣き続ける子供、降り出した雨。
湿っていく世界の気配と、冬の容赦ない息吹が私という人間を悉くに変貌させていく。
善と悪の境界さえ曖昧な輪郭の中に蕩けだし、混じり合い、それは意味のない異物へと姿を変えた。
世界に絶望するその刹那、私はいつも冷静に変貌していく自分を感じている。
それは諦念にも思えたし、抗い難い快楽にも似ていた。
解き放たれていく、この、惨酷な世界から。
そして私は愚かにも、自分にはこの可哀想な子供を救う義務があるのだと思いこむのだ。
この子を、こんな世界に存在させ続けるのは余りに酷だと思うのだ。
ならば解放してやればいい。
この世界の全ての秩序から、道徳から、生という固定観念から。
私の手には小さなナイフが握られている。ポケットにすっぽりと収まってしまうくらいの、小さなナイフ。
それはまるで、子供を殺す為だけに用意されていた様に、私の手の中にあった。
俯いたまま泣き続ける子供、強まっていく雨脚。
暗い景色の中は、まるで莫大な質量を持った空間にも、酷く狭い空間の様にも思えた。
振りかざされるナイフは、まるで凶暴な狼の牙の様に光のない夜の中でも不思議と煌めいていた。
***
どこからが、絶望の始まりだったのか、思い出す事さえ面倒だった。
ただ世界を恨み、自身の生を恨み、一方的な暴力を与えるその存在に殺意を抱いた。
全身が粉々に砕かれる様な痛みの中、徹という名の少年は歯を食いしばり耐え続ける。
徹の父、健は酷い父親だった。
会社が倒産して、人が変わってしまったのだと母の楓は言った。
酒を飲み、パチンコをして、そして自分を殴りつける両の手。
会社が倒産したら、何をしても許されるのだろうか。誰かを傷つけて踏みつけて、ぼろぼろの雑巾の様に扱ってもいいのだろうか。
そんな事を思ったのは、父親に殴られて初めて血を吐いた時だった。
胃の中が重たく痛み、目の前が霞んで酷い眩暈に襲われた。
真っ黒い血を吐きだしながら、徹の中で何かが歪んでいく。
それは世界への絶望だったのか、はたまた許容出来なくなった憎しみが心を曲げた音だったのか。
ただ、その時から徹の中に根付いたのは、紛れもない、実の父に対する殺意だった。
沸々と込み上げる怒りは、徹の目の前を赤い闇で覆い尽くした。
激情の様であったそれは、不思議と徹の心を安定させる。
紛れもなく浮き彫りになった父、健への殺意。その想いがまるでこの世の真理の様に徹を充足させた。
父を殺す。
その揺るがない目的が徹の核となり、父の一挙一動に恐怖し震えていた心がひたりと音を立てて安定した気がした。
その日は、酷く寒い日だった事をよく覚えていた。
徹の指先は赤く晴れ上がり、悴んで感覚さえ失っていた。
かさつく空気が悉くに徹の体内に蓄積された水分を奪っていく。
乾いた大地を割り、根こそぎに生き物を殺していく枯渇と寒冷が、心底に徹という少年を惨めにさせた。
殴られた頬が痛い。
赤黒く晴れた左頬だけが異様な熱を宿していた。
寒い部屋の中で、徹は膝を抱え暗くなりつつある冬の黄昏の中、息を潜めていた。
ただじっと、呼吸だけを繰り返す。
自分が生きているのか死んでいるのか、その確かな感覚さえおぼろげで、頬に走る痛みだけが真実の様にさえ思えた。
もはや何度、殴られたのか分からない。今日はまだ頬だけだったが、また夜になればきっと新たな痛みを与えられるのだろう。
そしてこの痛みを知っているのは徹だけではない。
徹の母、楓もまた、この突き抜ける様な痛みに晒されている。
いや、きっと母は自分以上にもっと痛い思いをしているに違いない。
母はいつも、自分を守ってくれていたから。
だからこそ徹は、父を心から憎いと思った。
いつも酒を飲み、いやらしい笑みを浮かべて自分や母を殴る父の手。きつく握りしめられるそれは、何度も何度も自分達を痛めつける。
少し前までは、こんなではなかったのに。
そんな数年前の優しい記憶は、既に徹の中で息絶えていた。前は優しかった父。その面影も思い出も荒れ狂う日常の中、掻き消えていった。
憎しみだけが少年を育てていた。壮絶な日常は、いつしかあたり前の日常になり目の前に横たわる。
母は毎日泣いていた。傷つき、涙を零し、心を削り落していく。