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黒崎つばき
黒崎つばき
novelistID. 47734
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ロボットが泣いた日

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 その想いは理屈では到底説明出来ない心の執着だったのかもしれなかった。
 それでも、あの男が死んだ事に悲しみを覚えている訳でもない事を考えると、女の気持ちなんてどこまで移ろいやすく、捉え難いものなのだろう。
 海よりも深く、山よりも高い、そんな漠然的な質量の中を、楓の心はいつまでも揺蕩い続けている。
 山間の遠くから流れてくる風が、地鳴りの様に不気味な音と共に楓の体を通り過ぎる。
 凍てつく様な息吹に晒されて、楓は身震いした。
 背後には広い家。何もない、広い家。もう、誰もいない。
 孤独になるのは嫌だった。全てを失うのは恐ろし過ぎる。
 仄暗い絶望と孤独が、暗い家の中から押し寄せる。
 置いて行かないで、私を一人にしないで。
 楓は蹲る。莫大な世界の中、小さすぎる自身の存在に打ちのめされた。
 どこまでも高い朝焼けの空はただ末恐ろしいまでに頭上を覆い、どこまでも続く地平線は大地の輪郭さえ露わす様に莫大な広さを持って目の前に横たわる。
 広い世界、一人ぼっち。誰も居ない、居なくなってしまった。
 私の幸福は、一人きりでは成立しないのに。
 轟く風の音が耳を犯す。遠くから聞こえる山犬の遠吠えが更に楓の孤独感を煽った。
 小刻みに震えだす体を慰める様に、楓は自身の身を抱きすくめた。それでも微かな隙間から入り込む早朝の冷たい風が、悉くにその身を冷やしてしまう。
 丘の下から吹きあがってくる風が甲高い音を立てていた。

 やがて、朝日が大地へ姿を現す頃、東の地平線に浮かんだ人影を見た。
 それは逆光の中、まるで切り絵の様に大地に張りつけられている様でもあった。
 楓の虚ろな瞳が、じっとその人影を見詰めている。
 自分が何を見ているのかさえ、よく理解していなかった。
 それでも切り絵の様だったそれは微かに動いていて、しかも段々と此方に近づいてきている様だった。
 黒い輪郭だけの人影。人である事は間違いないのだけれど、その形は何処となく異形にも見えた。
 二本の足、胴体。けれど何故か、頭が二つある様に思える。
 ゆらゆらと陽炎の様に揺れながら、その人影は楓のいる緩い丘の上に登ってくる。
 楓の瞳がその姿をただじっと見詰めていた。
 それが何であるのか気付いたのは、太陽の位置が少し上へ移動した時だった。
 それまで真っ黒な影でしかなかったそれが、不意に色彩を取り戻し陰影を和らげた。
「あなた!」
 視認すると同時、楓は弾かれた様に走りだしていた。
 足が縺れ転びそうになりながらも、楓は丘をくだった。
 朝露に濡れた草を踏み締めながら、何かが体の外へ込み上げ、流れ出ていく様な感覚を覚えながら、楓はただ走る。
 朝露と朝日の中に浮かぶ最愛の家族の下へただひたすらに走っていた。

 ***

 全身を血に濡らした徹を森の中で見つけた時、佐久間は背筋が痛い程に戦慄したのを感じていた。
 暗闇の中でも分かる程に出血した体が痛々しい。
 流れ出る血液が深く、土の中へ染み込んでいく光景は、まるで徹の体が大地へと腐敗しながら取り込まれている様な気さえした。
 だからこそ佐久間は半ば反射的にその体を抱き抱えた。
 ぬるりとした感触が手の平に触れ、ぞっと肌が粟立った。
 しかし抱きかかえた体は温かく、徹が気絶しているだけだと直ぐに分かり、ほっと胸をなで下ろした。
 徹を抱え、直ぐに戻ろうとした佐久間の耳に異音が聞こえた。
 低く、獣が唸る様なそれに佐久間は不気味なものを覚えながら、音を立てない様に慎重にその音のする方へ歩み寄った。
 近づくにつれ、その正体が輪郭を帯び、佐久間の視界へ移る。
 それを見た時、徹を背に抱えながらも佐久間は思わず口を手で覆っていた。
 徹のものとは比べ物にならない血を全身から流した人の様なもの。
 呻きながら、手足を?がれながらも、ずる、ずるっと嫌な音と共に何かから逃げるみたいに体を引き摺っていた。
 何事かも分からない言葉を、力なく口を開閉させながら零していた。
 その物体が、不意に佐久間の姿に気付き、仄暗い目を向けてくる。
 瞬間、目が合った。
 その途端、佐久間はその場から逃げ出していた。
 あの男は、間違いない。山へ入る時に見た男の姿だ。
 夜中に、いつもの様に寝付けなかった佐久間は鬱屈する様な家の中に辟易して外へ出た。
 その時、遠くの方へ去っていく徹の姿を見つけた。
 その姿を見た時、何故か止めなくてはと思った。あのまま行かせては、きっと徹は二度と戻って来ないと思った。
 佐久間はその後ろ姿を追い掛ける。真っ直ぐと進んでいた徹はきっと道を曲がったりはしていないだろうと確信していた。
 そして山を一つ越え、更にもう一つの山へ足を踏み入れる時、少し離れた所に男の姿を見つけぎょっとした。
 あんな所で何をしているのか。もしかしたら自殺にでも来たのだろうか。
 そう思ったものの、その時の佐久間には男を止める事よりも、徹を探し出す事の方が重要で、その姿に後ろ髪を引かれながらも佐久間は徹を追って山へ入ったのだった。
 翌朝、家へ戻った佐久間は直ぐに町医者の所へ行った。
 その更に数時間後、警察がわんさかと村へやって来たのだった。
 山で出た変死体の調査の末、その場にあった足跡を元に警察は佐久間の元へたどり着いた。
 しかし死因は山犬に襲われた事による出血死で、殺人の要素は見当たらなかった。
 その男に、徹は襲われたらしい。そして何故か、山犬に襲われる事なく徹は助かった。という警察にしてみれば何とも首を捻る結果だった。
「あの子は……昔から動物に好かれる子だったんです」
 病院で、警察にそう証言した妻の姿を、佐久間は何故か強烈に覚えていた。
 その言葉には、まるでそれ以上の意味が含まれている様な気がしたのだが、佐久間にはそれ以上妻の内心を知る事は出来なかった。
 警察が、山男の証言で身元不明の死体を発見したその翌日、もう一人死人が出た。
 楓の実家の目の前の家に住む、梅という老婆だった。
 手首を果物ナイフで切り、湯船に沈めて自殺したらしい。
 梅の家の居間に、遺書があった。
 その遺書は、今は楓が持っている。楓は警察から渡されたそれを震える手で握り締め、涙を流しながら読んでいた。
 佐久間もまた、その遺書を読ませて貰ったのだった。




 楓ちゃんへ

 楓ちゃん、大きくなりましたね。
 東京へ行くと言ったきり、何年も戻って来なかったから心配していました。
 楓ちゃんの両親が亡くなった時も、殆ど顔を合わせる事が出来なかったですね。
 あの時の楓ちゃんの様子は、今でも忘れられません。
 励ましたい、力になりたいと思ったのに、結局この老婆には何一つ、してあげる事が出来ませんでした。
 私は今でも、その事を後悔しています。
 あの時、楓ちゃんを少しでも励まし、力になって上げていたら、東京であんな思いをする事もなかったのかもしれません。
 楓ちゃんが帰って来てから、楓ちゃんはとても辛そうに東京での事を語ってくれましたね。
 私は胸が押し潰されそうな思いでそれを聞いていました。
 けれど、楓ちゃんは少しずつ立ち直っている様に思えて、私は少し安心しました。
作品名:ロボットが泣いた日 作家名:黒崎つばき