ロボットが泣いた日
それでも形振り構っている暇なんてなくて、男の残虐的な暴力かな震えながら逃げ回った。
世界はいつでも自分に暴力を与える。痛みと悲しみ、そして言い様のない悔しさに酷く惨めな気持ちにさせられる。
真っ暗な森の中、笑みを浮かべながら刃物を振りかざす男が憎くて、殺してやりたいくらい憎くて、けれど何も仕返す事の出来ない自身の無力さに泣きたくなる。
けれどそれ以上に徹を支配しているのは、畏怖感だった。
そして、菫もまたこんな恐怖を味わいながら死んでいったのかと思うと悔しくて仕様が無かった。
殺してやりたい。
けれど結局、自分はただの無力な子供でしかない事実に打ちのめされるだけだった。
「――うぅ」
男のカッターが腿を切った。鋭い痛みと避け様と体を反転させたお陰で徹は深い雑草の中に転げた。
全身に絡む柔らかない葉の感覚がふわりと絡まり、まるで抜け出せない蟻地獄を連想させた。
「……もう終わりかな?」
「……ッ」
言葉が出ない。恐怖の所為で舌が上顎に張り付いてしまったみたいだ。
「やっぱり君も、世界の惨酷さには勝てないのかな」
青年は独り言の様に呟くと、仰向けに転がったままそれでも肘をついて背後へ後ずさる少年ににじり寄る。
暗闇の世界、月のない空、数多に輝く星々の光。そこに佇む男の姿が、まるで残忍な悪魔の様に見えた。
「そんな顔をしないで。……僕も、すぐに行くから」
「……」
男は徹に馬乗りになる様にして膝をつくと、緩慢な動作で、見せつける様にカッターを振りかざす。
血に濡れたそれが、たったそれだけのものが、自分を殺すのだ。
日用品でしかない小さな刃が、少年の命を奪おうと垂涎している。
「もう、人間に生まれてくるんじゃないよ……?」
死刑宣告でもする様に抑揚なく呟いたのと同時、カッターを強く握る男の手。
ああ、死ぬのか、そう思った時だった。徹は男の更に背後にある気配に気づいた。それを見た瞬間、徹の中を渦巻いていた諦念が夜空の中に飛散する。
――まだ、終わりじゃない
「っつ」
徹は無言で目くばせする。男の背後にいる気配に合図を送った。
――殺せ、こいつを殺せ!
強く念じ、声にならない命令をそれに下した。
米神に力を込め、脳内の血液を圧迫する様に凝縮し、耳鳴りが聞こえる程に集中する。
凝縮した圧力を一気に放出する様に、徹はそれに向けて放った。
徹の意識が放たれた瞬間、凄まじい鳴き声が響く。同時に背後を振りむいた男の首筋に、真っ黒な山犬が噛みついた。
「っひ、ぎゃああ!」
何とも形容しがたい悲鳴は耳を塞ぎたくなる様なものだった。
それでも徹は更に命令する。
――殺せ、殺せ!
更に男の背後からもう一匹の山犬が飛び出してくる。恐ろしい鳴き声を漏らしながら、涎がしたたる牙を男の腿へと突き立てた。
男が悶絶する。一体何が起きているのか理解する間もなく訳の分からない恐怖に晒され、何事かを喚きながら手足を見っともなくばたつかせていた。
辺りに赤黒い血が飛び散り、それは徹の頬や額にまで飛んできた。
生暖かい感触を嫌悪しながらも、徹は命令し続けた。
あの雨の日、飼い犬に命令した様に、何度も何度も、憎悪を滾らせながら獣に命令を下す。
やがて男は滅茶苦茶に暴れながら木々の中へ消えていった。
漆黒の中から、断末魔の様な掠れた悲鳴を聞きながら、徹はとうとう意識を失くしていた。
***
未だ朝焼けの残る景色の中、楓は落ち付きなく家の周りを歩き回っていた。
湿った空気が世界に沈殿していて、まるで水底を思わせる静けさに耳鳴りがした。
時折、思い出した様に野鳥が鳴く度、楓は不安げに顔を歪める。
朝方、ふと眼をさました楓は、また隣に佐久間がいない事に気付いた。
既に東の空が白み始めた頃合いだった為、楓はそのまま身を起こした。
家の中を迷子の様に彷徨い歩き、佐久間の姿を探すもどこにも夫の姿を見つける事が出来なくて、嫌な不安感に襲われた。
何気なく覗いた徹の部屋を見た時、楓はその不安が目に見えて自分の目の前に横たわった事を悟った。
徹もいない。この広い平屋に、自分一人しかいない。
そう思うともう駄目で、言い様のない恐怖にも似た焦燥に苛まれた。
二人は一体、どこへ行ってしまったのだろう。
佐久間が夜な夜な寝室を抜け出す事は珍しくなかったが、それでもこんな夜明けまで戻らない事は楓の記憶に残っている限り一度もなかった。
それに加え、何故か徹までが抜け出している。
二人連れだっての事なのか、それとも全く別々に家を出たのか、楓には分からない。
だからこそ余計に不安で、嫌な感覚がじわじわと全身を撫でていく。
居ても立っても居られず家から飛び出したのはいいが、どこへ探しにいけばいいのか分からず、意味も無く家の周りをぐるぐると回るばかりだった。
そうしている内に、思考は夫と息子の最近の様子を反芻し始めていた。
折角、治りかけていたのに。ロボットの様に表情を失くしてしまった徹と、歪な笑みしか浮かべる事の出来なかった佐久間。
何かが欠落した様な二人だったが、ここで四人で暮らす内、その欠落した何かを取り戻しつつあったのは確かだった。
けれど、菫が殺されて、家の中は水の底へ沈んでしまったみたいに沈黙した。
皆が顔を伏せ、互いの存在さえも認識出来ず、自分の中に渦巻く悲しみだとか絶望だとか憎悪だとか、そんな真っ黒い感情の中に意識を沈めてしまった。
それは無論楓もそうであったし、だからこそ、二人の様子を注意深く観察する事が出来なかった。
もっと自分がしっかりしていれば、二人はあんな、仄暗い目で生を消費する様に日々を暮らす事はなかったのかもしれない。
全ては、無力で愚かな自分の所為である気がして、楓は自己嫌悪に打ちのめされる。
そしてその結果として、二人は姿を消してしまった。
楓にはそう思えてならなかった。
形あるものが壊れる時、それは突如として訪れる。
身構える暇もなく暴力的に瓦解するそれに気付いた時、既に取り返しのつかない事になっている。
いい家族になれると思った、いや、いい家族であった筈なのに。やっと、幸せを手にしたと思ったのに。
何故世界はこれほどに容赦なく冷徹で残忍なのだろう。
徹は、生きて帰らないかもしれない。
それは予感でもあったし、ただの胸騒ぎに駆りたてられた末の妄想なのかもしれない。
けれど楓にはどうしてもその予感を打ち消すだけの材料をそろえる事が出来なかった。
その予感は、菫が殺されたその時から地続きに楓の中に存在し続けていたものでもあった。
ああ、きっと次はこの子が殺される。
世界はいつだって、私の大事なものを奪っていくのだから。
幸福な時間、大切な時間、そして得難い大切な家族。
前の夫が死んだ時、楓は確かに安堵していたし、喜悦を感じてもいた。
それでも心のどこかに風穴が開いてしまったみたいな歪なものをずっと感じていた。
それはもしかしたら、楓が未だにあの男の事を、愛していたからなのかもしれない。
幾ら暴力を振るわれても、大事な息子を傷つけられても、あの男は楓が最初に愛した夫なのだ。