ロボットが泣いた日
様々な感情が一気に吹き上がり、あの日々に感じていた世界への嘆きが再び徹という少年を食い殺そうとする。
菫を殺した残忍な犯人が、今度は自分を殺そうとしている。
それに強烈なまでの憤りを覚えながらも、逃げる事しか出来ない事実に徹は奥歯を噛みしめた。
大人と子供では分が悪すぎる。
真っ暗な山の中は斜面だらけで、少し気を抜けば直ぐに足を取られ転んでしまいそうだった。
けれど背後の男は確実に近づいていて、このままでは逃げきれないと思った。
菫を殺して、更に自分まで殺されてなるものか。
皮肉にも、この時の徹は生にしがみ付こうとさえしていた。
死にに来た筈の山の中で、生きるために逃げ回っている矛盾に徹はやはり世界への理不尽を恨んでいた。
男が言う様に、この世界に神様が居ないのなら、きっと自分はここで死ぬ事になるのだろう。
運命なんて上等な言葉を使う気はないが、それでもこれは逃れられない運命なのかもしれなかった。
「っは……っはぁ……はあ」
静まり返った山の中に木霊する二人の荒い呼吸音。それは余りに不気味に自身の鼓膜へと戻る。
ざくざくと雑草を踏み潰しながら山の中を右往左往と逃げ回る自分が、まるで肉食獣から逃げ回る草食動物の様にさえ思えた。
もしそうならば、自然の摂理に従って肉食獣に摂取されるしかないではないか。
そんな事を混沌とする頭で考えてみても、何も状況は変わらない。
そうだ、世界は常に惨酷で、理不尽が跋扈する世の中でしかない。
唐突にまた絶望がやってきて、徹の足を鈍らせようとする。
背後の気配が僅かに距離を縮めて来ていた。
無残に殺された菫の姿がフラッシュバックしてきて酷い気分だった。
痛かっただろう、怖かっただろう。
一人、あんな場所に取り残されて、死に向かっていく感覚に絶望しながら、きっと菫は助けを求めていた筈なのに。
もし、もう少し早く自分があの場所へたどり着いていたら、もしかしたら菫は助かったのかもしれない。
そう思うと徹は自分の無力さに泣きたくなった。
所詮、自分には何の力もない、ちっぽけな存在でしかない。
莫大な質量をもち、様々な悪に立ち込めたこの世界で生き抜く事が出来る程、自分は強くない。
そして菫もまた、無力な生き物でしかない。
だからこそ、誰かに守られながら人は生きていくのだろう。
菫は、自分が守らなければいけない存在だった。
初めて出来た妹がただ愛おしかった。
そう気付いたのは、愚かにも今この瞬間だった。
菫がくれた四つ葉のクローバー。キラキラと反射して宝石が煌めいているみたいだった。
あんなにあの葉が美しく見えたのは、菫が必死に探して自分にくれたものだったからだ。
だからあのクローバーを大切だと思った。ずっと持っていたいと思った。
何でもっと早く気付かなかったのだろう。
そうすればきっと、もっと菫と楽しい時間を過ごせた筈なのに。
「はぁ……菫っ……」
ぜえぜえと追い付かない呼吸を繰り返しながら、無意識に菫の名を呼んでいた。
今更のように全身から悲しみが溢れだして、菫を失った事実に打ちのめされた。
もう会えない、可愛い妹。もう一生、笑いかけてくれる事のない菫の亡骸が、徹の脳裏を焼いて行く。
恐怖と悲しみ、そして怒りに板挟みにされながら、徹はただ必死に逃げた。
こんな奴に殺されてたまるものか。
絶対に生きてやる。菫の分も生き抜いてやる。
それだけが、今の徹に出来る菫への手向けでもあった。
この暗さだ、距離を保てれば撒く事は可能かもしれない。
けれど背後の気配は一向に離れず、まるでこの鬼ごっこを楽しんでいる様な気さえした。
男は自分と同じ殺人者だ。けれど男は、その殺人を楽しんでいる節があった。
徹にはそう思えて仕様が無かった。
世界の理不尽への怒りを大義名分にして、殺人を犯す男はもしかしたらその前にも人を殺しているのかもしれない。
抵抗も出来ない小さな子供を、何人も、何人も。
***
暗い森の中を肺が潰れる感覚の中で走りぬけていた。
足首に絡む雑草が鬱陶しい。幾度も転びそうになりながらも、決して足を止めずに走り続けた。
前にある気配は離れているが、それでも少しずつ近づいている筈だ。
絶対に追い付かなければいけない。
ここで見失ったら、きっと一生後悔する。
血の巡りが悪くなっているのか、両足が鉛の様に重たく感じた。
喉が激しい呼吸に乾き切り、破れてしまいそうだった。
それでも諦める訳にはいかなかった。
絶対に、追い付いてやる。
***
切られた足首が痛かった。
腱までは達していなくとも、かなり深く切られている様だった。
全速力で逃げているつもりだったが、もしかしたらその傷の所為で思いのほかスピードが出ていないのかもしれない。
徹は足が遅い方ではない。むしろ早い部類に入るだろう。
前に、運動会の短距離競走で一位を取った時、楓が酷く喜んでいた事を思い出していた。
足から血が流れ出ていく感覚を覚えながら、徐々に速度も低下している事に気付く。
追い付かれる。
そう思った時、足元から脳天までを覆い尽くす震撼に支配された。
恐怖が全身を蹂躙して、更に呼吸が乱れてしまった。
恐怖に飲まれてしまえば、体は自由を失う。
その恐怖から逃れる為に逃げている筈なのに、硬直する体は言う事を聞かなくなる。
徹の走る速度が著しく低下していた。
急激に背後から近づいてくる気配。
荒い呼吸音と乱暴な足音。
絶望がすぐ傍まで迫っていた。
「――っい」
男の息遣いがすぐ背後で聞こえた時、同時に背中に走った鋭い痛みに徹は大きくバランスを崩した。
「っは……やっと捕まえた」
痛む背を庇う様にして転げた徹は崩れ落ちそうになった足を何とか奮い立たせ、大きな木の幹にしがみ付いた。
けれど既に距離は詰められていて、今背を向ければきっとまた切りつけられると思った。
「もう逃がさないよ。大人しく、僕に殺されてよ」
男の顔は笑っていた。
きっと、菫を殺した時もこうして笑っていたに違いない。
そう思うと男への怒りで気が可笑しくなりそうだった。
呼吸を整えながら、徹は殺意の籠った目で男を睨む。血の滴るカッターナイフを振りかざすその姿を。
「さて、君はこの世の理不尽から逃れる事が出来るのかな」
まるで物語を代弁する様な口ぶりで青年は言う。この状況を楽しむ様に。
「っつ!」
振りかざされる鋭利な刃が首の辺りを掠めた。紙一重でかわしはしたものの、首の皮一枚がすっと薄く切れた。
間髪いれずに切りつけてくるカッターの刃が今度は左の二の腕を掠る。
背中に走る痛みの所為で反応が遅れ、深々と肉が切り裂かれ真っ赤な血がどろりと腕を濡らした。
ぼたぼたと黒い葉っぱの上に流れ落ちら血にまた恐怖した。
このまま、自分はここで嬲り殺されると思った。
震える体は恐怖の糸に絡め取られてしまったみたいに重かった。
幾度も切りつけられる傷の所為で全身がどくどくと脈打つみたいに痛くて、汗と血で酷い有様になっている。